昭和天皇が靖国参拝を取り止めた「犯人」は誰? 侍従たちが“主犯の正体”に言及



文/小内誠一

終戦記念日の靖国神社は…

8月15日の終戦記念日が近づくと、戦争についてメディアが盛んに取り上げるようになる。そして当日のテレビはだれが靖国に参拝したのかで盛り上がることになる。コロナ禍のため、今年の靖国神社では8月15日の参拝集中を避け、8月6日から16日に分散して参拝するように呼び掛けている。

天皇陛下万歳! 日本国万歳! 皇室弥栄!

という合唱も今年は自粛されるのだろうか。

なお安倍首相は今年も参拝はせず、代理人を通じ玉串料を私費で納めるようだ。首相の参拝を熱望してきた保守は、どうして安倍首相の弱腰を批判しないのか不思議ではある。

ところで靖国神社はもともと天皇のために戦死した人々を祀り顕彰するための施設だ。しかし天皇親拝(参拝)は、昭和50(1975)年11月21日を最後に途絶えている。設立趣旨からすれば、天皇にとってこれは不本意でなければならない。

しかし靖国神社の現状を見直すと、果たして天皇が親拝するのにふさわしい環境といえるだろうか? 親拝が途絶えた後に改修再開となった併設博物館「遊就館」は、戦争賛美のイデオロギーが満載だ。中には書店が入っているのだが、日本会議系列の戦前賛美本・男系男子賛美本が溢れている。

8月15日にはコスプレ会場となり、靖国神社の周辺では新宗教団体の勧誘がすごい。靖国に参拝する人は新宗教に入りやすいという傾向でもあるのだろうか?

コスプレ会場となった靖国神社(撮影者不明)
靖国神社周辺での宗教勧誘(田野幸伸氏2017年撮影)

このように終戦記念日の靖国神社は雑然騒乱としており、静かに慰霊者を悼む場所ではなくなってしまった。この原因はもちろん、1978年に靖国神社にA級戦犯が合祀され、国内外で大論争になったからだ。それ以来、靖国神社はイデオロギーの巣窟になってしまった。果たしそのような場に天皇陛下が親拝することはふさわしいだろうか?

竹田恒泰『天皇の国史』における「靖国神社御親拝」の正誤

昭和天皇が靖国親拝しなくなった理由

昭和天皇が靖国神社への親拝を取りやめた理由は、「A級戦犯合祀」だ。たとえば卜部亮吾侍従の日記には「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(2001年7月31日)とあるし、富田朝彦侍従が残したメモには昭和天皇の肉声が次のように残されいてる。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ

富田メモ

筑波藤麿元宮司は慎重に対処したのに、後任の松平永芳元宮司がA級戦犯を合祀したので天皇が親拝しなくなったと読める内容だ。松平宮司の父・慶民氏は終戦直後の宮内大臣で、天皇の信頼が厚かった。複数の資料に裏付けられている以上、靖国親拝停止の主原因は「A級戦犯合祀」と考えるのが最も説得的だ。以上の諸経緯については有名であるから知っている人も多いであろう。

昭和天皇によるA級戦犯たちの評価

以上の前提を踏まえ、本記事では昭和天皇がA級戦犯らのうち、誰の合祀がお気に召さなかったのかを考察していく。A級戦犯の代表格といえば東条英機だが、侍従たちの日記や『昭和天皇実録』などを読む限り、昭和天皇が東条英機を嫌悪していたような記述はないし、A級戦犯合祀の際も言及されない。

侍従たちの日記を読む限り、宮内庁や昭和天皇が問題視していたのは松岡洋右(外交官)、広田弘毅(外交官)、白鳥敏夫(外交官)の三名だ。前節で取り上げた富田メモでも「松岡、白取(鳥)」と昭和天皇は言及している。

この三名のA級戦犯はいずれも軍人ではなく文官であり、このうち東京裁判で死刑判決が下り処刑されたのは広田弘毅だけである。松岡洋右は公判中に病死。白鳥敏夫に至っては東京裁判で終身禁固刑の判決が下った半年後に病院のベッドの上にて病死した。「昭和殉難者」と言われてもピンとこない経歴だ。

ともかくこの三名の合祀を、時の侍従たちは何度も取り上げて言及する。A級戦犯合祀が朝日新聞で取り上げられた日に、入江相政侍従は次のように日記を綴っている。

朝刊に靖国神社に松岡、白鳥などの合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ。(1979年4月19日)

『入江相政日記』第5巻、朝日新聞社

A級戦犯は14人いるが、この両名にあえて言及し、それが富田メモにあった二人と同じであることは興味深い。また2019年に刊行された小林忍侍従の日記には、次のような徳川義寛参与(元侍従長)とのやり取りが残されている。

徳川参与侍従室に来られ暫くお話し。靖国神社への総理参拝で毎年問題となる戦犯合祀で東條〔英機〕など取りあげられるが、最も問題となるのはむしろ松岡〔洋右〕、広田〔弘毅〕の文官(非軍人)が入っていることである。(平成2年8月21日)

小林忍『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋、2019

徳川義寛参与(元侍従長、1906-1996)は昭和天皇の最側近の一人である。晩年残した回顧録にも次のように述べている。

私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。

でも当時、「そちらの勉強不足だ」みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して「おかしい」と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には、軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから。

それに、靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。

徳川義寛・岩井克己『侍従長の遺言——昭和天皇との50年』朝日新聞社、1997

先の小林忍侍従日記とほぼ同趣旨だ。最側近である徳川義寛がこう証言した事実は重要である。近現代史家の半藤一利さんは「これは徳川さん個人の考えというよりも、昭和天皇のお考えじゃないでしょうかね。徳川さんの残した『侍従長の遺言』などを読んでいると、歴史問題などで非常に深く昭和天皇から話を聞いていたことがわかります。靖国についてやり取りする中で、昭和天皇と同じ考えを持つに至ったと考えても、おかしくはありません」と述べている(小林忍『昭和天皇 最後の侍従日記』)。

昭和天皇と松岡洋右

以上、侍従たちが残した著作を検討した。A級戦犯合祀にあたっては、非軍人である松岡洋右(外交官)、広田弘毅(外交官)、白鳥敏夫(外交官)が問題視されている。その中でも松岡洋右は必ず言及される。意外であるが開戦時の首相・東条英機はほとんど言及されない。それどころか、徳川義寛(元侍従長)が「東条さんら軍人で死刑になった人はともかく」と先に述べたように、むしろ前向きとも評価できる。

さて、何度も言及されてきた松岡洋右とはいかなる人物かといえば、太平洋戦争(大東亜戦争)の切っ掛けを作った人物の一人だ。小林侍従と徳川参与はこの松岡を次のように評価している。

また特に松岡は日米開戦の張本人ともいうべきもので、日米交渉の最中、ルーズヴェルト大統領の出した条件に、陸軍も海軍も賛成していたのに松岡が自分が交渉に当らなかった故をもって反対したために、交渉がまとまらなかったという。松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り、日ソ不可侵条約を結んで、そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。(平成2年8月21日)

小林忍『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋、2019
松岡洋右

別の資料にもあたってみよう。終戦直後に戦中・戦前の出来事について昭和天皇が回顧した『昭和天皇独白録』には次のようにある。日米関係の決定的決裂を生んだ南仏印進駐(昭和15年)の経緯について、昭和天皇は次のように述べる。

この進駐は初めから之に反対してゐた松岡は二月の末に独乙に向ひ四月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった、恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思はれる。

『昭和天皇独白録』文藝春秋

「ヒトラーに買収された」とは強烈な一言だ。さらに戦争回避のための日米交渉をダメにしたのは松岡だと昭和天皇は断言する。

日米交渉は三国同盟成立の頃から非公式に話が始まったのでカトリック僧と岩畔大佐〔豪雄・軍事課長〕等の人物のことは聞いてはゐるが、それ以上の事は知ってゐない、最初は非常に好調に進んだが大切な時に松岡が反対したので駄目になった。松岡は日米交渉を挫折させた上に更にソ聯との中立条約で独乙をも憤慨させた。

『昭和天皇独白録』文藝春秋

このように昭和天皇にとって松岡洋右は「日米関係決裂の原因を作り、太平洋戦争(大東亜戦争)を起こした張本人」であったことがわかる。いみじくも徳川参与が言ったように、靖国神社は「国を安らかにするために奮戦して亡くなった人を祀る」場所であるはずだ。にもかかわらず、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀することに昭和天皇は納得いかなかったのだ。

ゆえに昭和天皇が靖国神社親拝を停止した理由は、A級戦犯の合祀、その中でも松岡洋右の合祀が御意に召さなかったと結論付けられよう。

執筆後記

宮内庁を退職してから、私より先に退職した友人や、まだ現役の友人らとともに勉強会を開いた。その成果の一部が本記事である。資料の収集に当たっては宮本タケロウ氏の協力もあった。心から感謝申し上げたい。ありがとうございました。

勉強会を通じて、昭和の記憶はすでに宮内庁から失われ始めていることを実感した。私が宮内庁に務めはじめたころの諸先輩方は、昭和天皇のこのような想いを背負っていたのかと思うと頭が下がる。

靖国親拝拒絶は昭和天皇の大御心だろう。この大御心は平成、令和へと受け継がれていくことは間違いない。昭和天皇の大御心と御聖断には衷心より尊敬申し上げたい。現在の皇室が国民からの尊崇される理由は、人間として素晴らしい行いに根ざしている。昭和・平成・令和と名君が続いたことに感謝したい。

竹田恒泰『天皇の国史』における「靖国神社御親拝」の正誤



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