文/宮本タケロウ
秋篠宮殿下「立皇嗣の礼」が11月8日に
11月8日の“立皇嗣の礼”は単なる儀礼ではありません。この儀式を通し皇太子の守り刀「壺切御剣」が秋篠宮殿下に託され、これをもって秋篠宮殿下(および同妃)は皇位継承者として宮中三殿に昇ることがようやく叶います。“立皇嗣の礼”を経ずとも法律的には既に秋篠宮殿下は「皇嗣」ですが、皇室のハウスルール上はまだまだ暫定というカタチです。
ところで眞子さまと小室圭さんの一件が、秋篠宮家に暗くのしかかっています。「のほほんと自由気ままに育ってきた秋篠宮殿下に、天皇としての重責に耐えられるのか?」「と多くの人が考えているようです。
今回は昭和天皇から今上陛下に引き継がれた「大御心」と「帝王学」をテーマに、秋篠宮殿下の資質について迫ってみたいと思います。

天皇陛下を讃えるマ元帥
敗戦から10年後の1955年(昭和30年)9月14日の読売新聞朝刊にある記事が掲載されました。
記事のタイトルは「天皇陛下を讃えるマ元帥」。
同年夏に国連加盟の交渉と安保条約の交渉にアメリカ・ニューヨークを訪問した重光葵外務大臣がマッカーサーに面会したときのことを伝えた手記でした。
この手記には、マッカーサー元帥が、極秘とされてきた昭和20年9月27日の昭和天皇との会見の内容が事細かく重光外相に語ったことが描写されています。
昭和天皇とマッカーサーの会見の様子は、終戦から75年が経つ今日まで、ある種の“神話”として語られてきましたが、オリジナルのソースはこの重光葵の手記にあります。
今回は読売新聞に掲載された重光葵の手記をしっかりと全文引用し、改めて“昭和天皇とマッカーサーの会見”の史実に迫りたいと思います。
重光葵外務大臣・手記を公開する
重光手記は、マッカーサーの会話をこのように書きます。
重光葵「東京出発前、那須御用邸で、天皇陛下に拝謁した際、陛下は『もしマッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい』とのことであった」
昭和30年9月14日の読売新聞朝刊
昭和天皇が訪米前の重光葵に面会された際「アメリカに行くならマッカーサーによろしく言っておいてくれ」と、ある種の社交辞令的な“挨拶”を重光に伝え、それを重光葵がマッカーサーに伝えたわけですが、それに対してマッカーサーが答えたのは、このような内容でした。
マッカーサー「自分は日本天皇の御伝言を他の何よりも喜ぶものである。私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するにはばからないのである。それにもかかわらず、陛下のなされたことは未だかつて、十分に世に知らされておらぬ。10年前、平和再来以来、欧州のことが常に書きたてられて、陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正統に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます。
同上
「天皇陛下こそ新日本の産みの親である」とは改めてすごいセリフです。
マッカーサーが驚愕した昭和天皇のお覚悟
そして、マッカーサーは昭和天皇に出会ったときのことをこのように回想し始めます。
私は戦前には、天皇陛下にお目にかかったことはありません。初めてお出会いしたのは、東京の米国大使館内であった。
どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに、実に驚きました。
陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのように仰いました。これには実にびっくりさせられました。」
同上
マッカーサーはいったい何にびっくりしたのでしょうか。
「どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心をもって」というセリフから察するに、「昭和天皇は自分に命乞いをしに来るんだろう」とマッカーサーが思っていたということを予感させます。
しかし、昭和天皇がマッカーサーに述べた言葉は、「戦争に敗れた国の君主はたいてい亡命・国外追放するか廃位させられるものだ」という欧米人の固定観念からは想像もできない言葉だったのです。
すなわち、
『私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また、事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下(マッカーサー:引用者注)の判断がいかようのものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います』
これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしよう、とした位です。もし国の罪を贖うことができれば進んで絞首台に上がることを申し出る、という、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。
同上
マッカーサーはまさか、「国の罪を贖うことができるなら、自ら絞首台に上がることを申し出る」という国家元首がいるなど、想像していなかったに違いありません。「興奮の余り、キスしようとした」との描写がなんとも言えませんね。
そして、マッカーサーは、昭和天皇の回想をこのように終えました。
陛下はご自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに、決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。
どうか日本にお帰りの上は、自分の暖かいごあいさつと親しみの情を陛下にお伝えください。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげて下さい」
重光葵「それは必ずお受け合い申し上げます」
同上
マッカーサーは、昭和天皇との対面の折、昭和天皇がアメリカ大使館まで来た時は玄関口まで出迎えることはありませんでしたが、対面の後は車寄せまで見送ったと言われています。
昭和天皇の神々しい無私の姿に感動・感服し、「心からなる尊敬の念」を抱いたということでしょう。
昭和天皇の直孫、今上天皇陛下
言うまでもないことですが、現在の天皇陛下は昭和天皇の直孫にあたります。

「日本国を救うためならば、進んで絞首台に上がることもいとわない」…そんな無私の英主・昭和天皇の直孫が現在の天皇陛下であるとは、改めて、胸に熱くなる思いがこみ上げてきませんでしょうか。
英主・昭和天皇と昭和の日本人が築き上げた日本の平和と皇室の安寧がずっと続いていくことを願いたいと思います。はたしてこの帝王学は秋篠宮殿下に受け継がれているのでしょうか…。
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