美智子さま“逆恨み”した「侍従の告白」 側近たちが暴露した“自愛”の姿



文/佐藤公子

民間から初の皇太子妃

11月8日に執り行われる“立皇嗣の礼”をもって、御代代わりにともなう一連の国事行為はすべて完了することになる。令和皇室は平成皇室の延長線上にある。だが平成時代、皇室は大きく様変わりした。

一つは、民間出身のお妃が誕生したことだ。旧来「お妃候補」は旧皇族・旧華族から選ばれるのが当然とされていたため、当時の皇室秩序から大きな反発があったことが、様々な資料から確認できる。昭和天皇の侍従を50年以上にわたり務めた故・入江相政氏の日記からは当時の宮中の様子が克明に伝わる。

東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様と喜久君様を招んでお訴へになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子といふ顔ぶれで田島さんに同じ趣旨のことをいはれた由。

入江為年監修『入江相政日記 第三巻』朝日新聞社

香淳皇后、秩父宮妃勢津子さま、高松宮妃喜久子さま、そして貞明皇后に仕えていたことで皇室内で強力な発言力を持っていた松平信子氏が中核となり、美智子さまの皇室入りに反対姿勢を取っていたことは有名だ。

しかし、昭和天皇の理解が後押しとなり、次第に表立っての批判は無くなっていったという。天皇の側近中の側近であった入江相政は当初、日記の中で美智子さまを“べた褒め”し、美智子さまが次第に皇室内での地位を確立していった様子がうかがえる。

三時前に出て黒木、田端両君と五反田の正田家へ行く。質素な家だし、みんな立派ないい方である。美智子さん、綺麗でそして立派である。

記者会見。この時の美智子さんの立派さは忘れられない。

十六日に美智子さんも交へてお文庫でお催しになったらと女官長を通じて申出たが早過ぎるとのことで駄目。何が早過ぎるのか全然分らない。

お召しだったといふので相撲がすんでから御前に出たら美智子さんの事について非常に御期待になってゐることをいろいろ仰せになる。

昼はデンマーク、コロンビア、インド各大使の御陪食、東宮妃殿下はじめてお出になり、コロンビア大使と非常によくお話しになっていらつしやった由。

同上、230、231、233、243、250頁

入江侍従は、美智子さまを婚約内定前からサポートし、お妃教育にも大きく関与していた人物だ。入内当初の密月関係は上記の日記から克明に伝わる。

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苦労の多い東宮時代

さて、平成皇室においてもう一つの大きな変化は、皇室報道に関する介入の仕方である。その象徴となる出来事が、いわゆる「美智子さま失声症事件」だ。

ことは、『宝島30』平成5年8月号に「皇室の危機 『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」という人物の記事が掲載されたことに端を発する。

この告発の中で、大内氏は平成皇室、とりわけ美智子さまについて「華美な生活を好み、キリスト教に親和性が高く、皇室になじまない」と痛烈に批判。これに大変なショックを感じられた美智子さまは声を失い数カ月間公務から遠ざかり、宮内庁に抗議文を発表させるという事態になった。

また美智子さまご自身も回復後の同年10月のお誕生日に、以下のように報道機関への良識を問うかのようなコメントを発表し、過熱するバッシングを一掃した。

どのような批判も,自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり,どのようなことでも,私の言葉が人を傷つけておりましたら,許して頂きたいと思います。

しかし事実でない報道には,大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが,事実に基づかない批判が,繰り返し許される社会であって欲しくはありません。幾つかの事例についてだけでも,関係者の説明がなされ,人々の納得を得られれば幸せに思います。

皇后陛下お誕生日に際し(平成5年)、宮内庁HP

これ以後、美智子さま賛美の週刊誌、書籍が皇室関連書籍の大半を占めるようになった。近代皇室の歴史において、皇后が直接メディアへの“反省”を促すような動きをしたことはなかったため、一部では美智子さまを「女帝」などと呼ぶ職員も現れたという。

美しすぎる美智子さま。慈愛・慈悲の代名詞として平成を駆け抜けた。

美智子さま“自愛”の姿

これまでの皇后にはなかった大胆不敵な動きをされた美智子さま。民間から初めて入内し、肩身の狭い苦しい時代を過ごされたことが、このような反骨心につながったのかもしれない。

美智子さまの皇室内での変化のきっかけは何だったのだろうか? 先出の『入江相政日記』を読むと、そこに手がかりとなる出来事が記されていた。

まず、美智子さま入内から2年後の昭和36年10月4日の日記に、興味深い内容が綴られる。

喜久君様から電話。九時過ぎに出勤、九時四十分から十時過ぎまで哥(うた)を見てくれといふのが本論だが、あと東宮妃殿下のことなどあらゆること、いつもの通り。「このままでは皇室は亡びるだけだ」といってあげる

同上、306頁

あれほどまでに密月関係であった入江侍従が、反美智子さまの中核であった喜久子さまと皇室の未来を憂いている様子である。2年間のうちに、内部で何らかの衝突があったことがうかがえる。

さらに、昭和38年3月以降の日記にはさらに過激な記述が残されている。入江氏は、連日のように美智子さまへの怒りを吐露する心情を記しているのだ。

次長から東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやるから当分内廷のことについては書かない方が無難と長官が云った由。あきれたことである。(3月22日)

(中略)

東宮妃の云はれたことくりかへし考へるが誠に不愉快である。それに更にかりにさう云はれたとしてもその事が当の予の耳に届くといふやうなこと昔の側近にはあり得ないことである。(3月23日)

(中略)

又東宮妃のことが不愉快に思ひ出される。(3月24日)

同上、345頁、346頁

入江氏は侍従職の傍ら、随筆家としても活躍し多くの著作を残している。当時の週刊誌に寄稿をすることもあったようだ。おそらく、著作のいずれかが美智子さまの逆鱗に触れ、入江氏は当時長官だった宇佐美毅氏から叱正を受けることになったのだろう。これが平成皇室の“自愛”の姿なのだ。

このように、美智子さまはまだ“新米の皇太子妃”であった頃から、懇意であった入江侍従とも衝突するような勝ち気さを持ち合わせていたようだ。内部からの“改革”を推し進められ、当然皇族方からの反発も多かっただろう。

慈愛に満ちた開かれた皇室の印象が強い平成時代。しかしそのイメージを守るために、美智子さまは長年に渡り皇室内部やメディアとの調和に苦しんでこられたのかもしれない。

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