紀子さま、雅子さまに“積年の想い”「悠仁を産んでやったのに!」の怒髪天



文/宮本タケロウ

秋篠宮皇嗣家

11月8日の“立皇嗣の礼”が終われば、いよいよ皇位継承門について議論が始まります。現在、皇位継承資格者が2人もいる秋篠宮家。いわずもがな、当主の秋篠宮さまは天皇陛下の同世代(弟)なので、次世代の皇位継承者はその息子の悠仁さまお一人です。

思えば、今から14年前の2006年9月、佳子さまのご誕生から12年目にして、皇室では40年ぶりに生まれた男の子が悠仁さまでした。

この40年ぶりの男子誕生について、残念ながら、一部では以下のようなバッシングが多いのも事実です。

皇室典範改正の議論中に紀子さまが懐妊したのは、男子を産んで出し抜きたかったからだ

紀子さまが子供を天皇にする“野望”を持っていたため、皇位継承の議論を中断させて男の子を産んだ

確かに、悠仁さまのご懐妊は、国会で女性天皇を可能にする皇室典範改正の議論がなされていた最中の出来事であり、悠仁さま誕生によって、女性天皇=愛子天皇の可能性がとん挫したのは、客観的事実です。

しかしながら、紀子さまが意志をもって、「子供を天皇にするために」また「雅子さまを出し抜くために」悠仁さまをお産みになったのかといえば、それは事実と異なります。

実は、むしろ紀子さまは雅子さまに「男子を産むことをずっと遠慮をし続けてきた」のが真相なのです。

輝くように美しい雅子さま。紀子さまは後ろに。

 

美智子さま「美しい私を国民が待っている」の確信 上皇さま泡吹く「ミテコ復帰論」が再燃

紀子さまの「ご遠慮」

詳しく見ていきましょう。

まず、秋篠宮家のお子様方のお誕生日を見れば分かる通り、佳子さま誕生から悠仁さま誕生まで、なんと12年も間が空いています。

  • 眞子さまご誕生:1991年10月23日
  • 佳子さまご誕生:1994年12月29日
  • 悠仁さまご誕生:2006年9月6日

これを、皇太子さま・雅子さま(現・両陛下)のライフイベントと併せて時系列順にするとこうなります。

  • 1991年:眞子さまご誕生
  • 1993年:皇太子ご成婚
  • 1994年:佳子さまご誕生
  • 2001年:愛子さま誕生
  • 2006年:悠仁さまご誕生

1993年の皇太子さま・雅子さまご成婚の翌年に、秋篠宮家に佳子さまが誕生したわけですが、その後に秋篠宮家が選んだのは、当時結婚2年目でお子様のいらっしゃらなかった両陛下(当時皇太子両殿下)に遠慮して、ずっとお子様を作らないという選択肢でした。

めでたい佳子さま誕生の直後には、「いまだに子女が誕生していなかった兄宮・徳仁親王および同妃雅子に遠慮すべき」とのバッシングや批判があったと言われています

これには傍証があります。2010年に文藝春秋から出版された『皇太子と雅子妃の運命』には朝日新聞皇室記者・岩井克己と評論家・福田和也のこのような会話が収録されています。

福田:秋篠宮家は第三子について、長い間、東宮に遠慮していたそうですが。

岩井:悠仁親王の誕生は、きわめてデリケートな問題を含んでいます。四年前に、当時の湯浅利夫宮内庁長官が「秋篠宮家に第三子を希望したい」と発言したときも、私はとっさに「第三子が男児の場合、皇位継承問題が複雑化しますが」と質問しました。今後、皇太子ご夫妻に男子誕生があった場合、その親王は、悠仁親王はもちろんのこと、秋篠宮よりも皇位継承順位が上になる。秋篠宮家は、この何年かは、いわば宙に浮いた状態なわけです。

福田:だから「ご遠慮」するしかなかったのですね。

『皇太子と雅子妃の運命――平成皇室大論争』文藝春秋、2010、188頁

つまり、子供のできない皇太子家に遠慮して、1994年から子供を作るのをずっと遠慮してきたのが秋篠宮さまと紀子さまだったわけです。

この「ご遠慮」は、愛子さまが誕生した後も続きます。

絶大な国民的人気を誇る愛子さま。頭脳明晰・性格温和と最強・最高のプリンセスである。

宮内庁からの「第三子プレッシャー」をずっと遠慮し続けた紀子さま

愛子さまがお生まれになった翌年の2002年から2004年まで3年間にわたって、秋篠宮さまと紀子さまは誕生日の記者会見で「三人目のお子様は?」と記者から質問をされており、その全てに「相談しながら」とやんわり受け流しているのです。

記者:答えづらいというところもあると思いますけどれも,最後にですね,2問目の最後の質問で3人目のお子さまの話を,もし可能であれば。

殿 下:非常に答えづらい事柄ですけれども,確かに子供たちが妹なり弟なりがいて,何かその世話をしてあげたいという気持ちがあるような印象があります。(中略)

今後のことはまた相談をしながらということでしょうか。

この一年を振り返って(平成14年):2002年11月

記者:昨年の会見で「眞子さま,佳子さまにごきょうだいは?」という質問をさせていただきましたら,殿下が「今後のことはまた相談しながら」とお答えになりましたけれども,3人目のお子さまについてのお考えを是非お聞かせください。

殿下:3人目の子供については去年と同じ状況で,新たにお話することは今のところありません

文仁親王殿下お誕生日に際し(平成15年):2003年11月

この記者会見の翌月(2003年12月)に雅子さまは入院。入院後は湯浅利夫宮内庁長官が「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮および同妃に)第三子を強く希望する」と発言しました。

それを受けての翌年の秋篠宮さまと紀子さまの発言はこうでした。

記者:湯浅宮内庁長官は,秋篠宮さまの3人目のお子さまについて「(前略)私は3人目のご出産を強く希望したい」と言及しました。その後,発言は議論も呼びましたが,殿下ご自身は,発言をどのように受け止め,その内容についてどのようなお考えをお持ちでしょうか。

殿下:昨年,湯浅長官が3人目の子供を強く希望したいということを発言いたしました。その会見後しばらくして長官が私の所に来ました。それについての説明をしに来たわけなんですけれども,その話を聞き,またその時の記録を見ますと,私が昨年の記者会見で3人目の子供について聞かれ,一昨年の会見でそれについてはよく相談しながらと答え,昨年はその前の年の状況と変わらないと答えたということがあって,それを受けての記者から長官へその気持ち,つまり秋篠宮の気持ちに変わりはないかという質問だったと私は解釈しております。

そのことに対して,長官が皇室の繁栄とそれから,これは意外と報道されているところでは抜けているというか,知られていないように思うのですけれども,秋篠宮一家の繁栄を考えた上で3人目を強く希望したい,ということを話しております。宮内庁長官の自分の立場としてということですね。そのような質問があれば宮内庁長官という立場として,それについて話をするのであればそのように言わざるを得ないのではないかと,私はそのように感じております。

文仁親王殿下お誕生日に際し(平成16年):2004年11月

いかがでしょう。青でアンダーラインを引いた個所に注目してみましょう。「湯浅長官の発言は秋篠宮家の繁栄を考えた上でのことだ」とは、つまり「長官は『秋篠宮家に将来の天皇を産んでほしい』と言ったのではない」と、あえて記者会見の場で秋篠宮さまが発言をしているということになりますね。

皇太子家に非常に“遠慮”している様子が見て取れると思います。

総合して見ますと、愛子さま誕生の直後から、秋篠宮さまと紀子さまのに第3子のプレッシャーが3年間ずっとありながらも、それを「相談しながら」とやんわりかわし続けてきたというのが実情のようです。(ちなみに、翌年2005年の誕生日会見では、政府で皇室典範改正の議論が深まっていたため、『第三子』に関する質問自体がありませんでした)

皇室典範改正に追い込まれるまで、遠慮を続けた紀子さま

さて、いかがでしたでしょうか。

巷では、「皇室典範改正の議論中に紀子さまが懐妊したのは、男子を産んで出し抜きたかった」や「紀子さまは子供を天皇にする野望を持っていた」などと言われますが、そもそも子供を天皇にしたいのであれば、佳子さま誕生から悠仁さま誕生までの12年間も何もしないというのはおかしいです。

本当に紀子さまに雅子さまを出し抜く野望があるのなら、12年の間に男の子を何人も儲ける努力をするはずではないでしょうか。

実際は、子供を作る努力をしなかったばかりか、愛子さま誕生以後もずっと宮内庁からのプレッシャーがありながら、ずっと天皇陛下と雅子さまに「ご遠慮」し続けたということが真相です。

悠仁さまが生まれたことで皇室典範改正の動きが止まったのは事実です。

しかし、それは「紀子さまが男の子を産んで天皇にしたかった」のではなく、むしろ正反対に「皇室典範の改正をせざるを得ない状況になるまで、紀子さまが雅子さまに“遠慮”をし続けた」という何よりの証として理解するのが適切ではないでしょうか。思えば紀子さまは第三子にあたり「両陛下からの許しを得た」とコメントされていました。まさに悠仁さま出産は、美智子さまから紀子さまに譲られた、雅子さまへの“慈愛”だったのでしょう。

ですから悠仁さまと愛子さまを比べることは、紀子さまにとってすれば怒髪天で「せっかく雅子さまのため、国民のために産んでやったのに」となることは間違いありません。

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