美智子さまは「猿真似」だった!「平成流」は「昭和流」の二番煎じ 香淳皇后の慈愛は届いたのか?



文/宮本タケロウ

「平成流」の皇室

平成の30年間で皇室に確立したと言われる”平成流”。

皇室への親しみと敬意、そして皇室の国民への親しみと慈愛が同居する”平成流”が始まったのは、一般に平成の皇后・美智子さまが皇室に嫁がれた昭和30年代半ばにはじまると言われています。

戦時中は現人神と呼ばれた天皇の皇太子の妃が腰をかがめ、子供や病者に顔を寄せて、膝を付いて声をかける光景は、時を経て、平成の皇室に定着し、令和にもしっかり引き継がれています。

(しゃがんで子供と同じ目線で接する東宮時代の上皇・上皇后両陛下)

美智子さまが昭和30年代に率先して、慈愛のイメージで語られる皇室を作り上げたということが今日、ある種の定説になっていますが、しかし、森暢平・河西秀哉編の『皇后四代の歴史 昭憲皇太后から美智子皇后まで』(2018年)には、そうした「定説」について慧眼ともいえる鋭い分析が記載されています。

しかし、弱者に寄り添う、あるいは身体を近づける行為自体は、美智子妃以前にもあった。図は、一九五四年二月、香淳皇后が滋賀県の大津赤十字病院小児科病室を訪れたときの図像である。香淳皇后は入院中の男児に近づき、顔を寄せ、頭をなでている

森暢平・河西秀哉編の『皇后四代の歴史 昭憲皇太后から美智子皇后まで』吉川弘文館、2018年、131頁

なんと、同書によると、弱者に寄り添う慈愛の行為は決して美智子さまが始めたわけではなく、美智子さまが皇室入りする前から香淳皇后によって昭和20年代の末からなされてきたことだそうです。

つまり、昭和30年代という時代のもとで当時の皇室に求められたあり方が美智子さまの行為に投影されているだけであって、美智子さまが「皇室に新しい傾向をもたらした」わけではなく、美智子さまはそれ以前の時代と実は連続しているということになるでしょう。元宮内庁職員の小内誠一さんは「香淳皇后の猿真似でしょう」と評価されますが本当なのでしょうか?

今回は、同『皇后四代の歴史 昭憲皇太后から美智子皇后まで』を参考に、実は香淳皇后が作り上げていた”平成流”の皇室を見ていきたいと思います。

二歳児の頭を撫で、母親をいたわる香淳皇后

では、同書に記述される香淳皇后が1954年に近畿三府県(京都、滋賀、奈良)に行啓された描写を基にして、論を進めています。

大津赤十字病院では、皇后は二歳男児の頭をなでた。カメラのフラッシュに驚いて男児が泣いたためである。皇后はさらに「お母さまも傍へ来てあげなさい」と、母親を近くに呼び寄せた。(「朝日新聞」滋賀版二月六日)

同上、132頁

二歳児の頭を優しくなで、母親を呼び寄せる優しい香淳皇后の姿が目に映るようです。

また同書には、香淳皇后の姿に触れ、戦後の復興への希望を取り戻していく様子が紹介されています。

ある幼稚園長は「近く奉迎したのははじめてで万才をさけぼおと思ったが胸が一ぱいになり、声が出なかった。そして日本は大丈夫だという気持が強くおこりました」(「滋賀新聞」二月六日)と述べている。

中国に従軍経験がある長浜赤十字病院の二九歳看護婦は、「戦時中から皇后さまは私たちの名誉総裁でしたが、いまこんな近くでお目にかかれるとは。ほんとうによい時代になりました」と涙をこぼしたという(「読売新聞滋賀版」二月六日)。戦災から立ち上がった現状を「日本は大丈夫」「よい時代になりました」と喜んでいるのである。


「滋賀新聞」(二月五日社説)も「われらの皇室としておなじ地上に立ち、おなじ息吹きを感ずる親しさをもち、それだけ、一つの感情が共通して、新しい国の在り方に、懐しさと励みとが感ぜられるようになった」と書いた。

同上、134頁

こうした庶民の反応は、皇后に新しい「国の在り方」を見ているからだと言えるでしょう。皇后を歓迎する空間では、”辛い戦争”という集合的記憶が呼び起こされ、どん底からの復興を喜ぶ人びとの姿があり、その復興の希望を皇后の慈愛の姿に重ね合わせたのだと言えると思います。

(香淳皇后に抱かれる現・天皇陛下)

香淳皇后の悩み、苦しみ、そして愛情…

また、『主婦の友』が1955年1月号から連載した小山いと子の小説『皇后さま』にも、香淳皇后の人間的な飾らない慈愛の姿は見てとれます。同小説は香淳皇后の生い立ちから、昭和天皇との結婚、そして娘たちの嫁入りまで、皇后の半生を描いた小説であり、最後に「私は、皇后として、妻として、母として至らぬことばかりではあったが、力のかぎり生きて来た。これからもそうありたい」と香淳皇后がつぶやくところで終わるものでした。

この小説の反響は次のようなものでした。

この連載が終わったあと、『主婦の友』読者欄には、つぎのような投書が掲載された。

「戦後、私たちは衣食住には言語につくせぬほど悩み通しましたが、皇室も御同様であったこと〔略〕嫁がれる宮様に対する皇后さまの、普通一般と少しも変らぬやさしい愛情、時代の大きな転換期にありながら、天皇をお助けしながらの内外の精神的御苦労のほどがしのばれまして、今までにない親しさを感じました」(茨城県の女性。(「主婦の友」四一巻一号、一九五七年)

同上、137頁

私は、皇后として、妻として、母として至らぬことばかりではあったが、力のかぎり生きて来た。これからもそうありたい…

これは、小説での台詞であり、本当に香淳皇后がこう仰ったのかは不明ですが、このようなセリフを発するイメージで広く国民に受け入れられたということは間違いないでしょう。

そして、

皇后さまの、普通一般と少しも変らぬやさしい愛情、時代の大きな転換期にありながら、天皇をお助けしながらの内外の精神的御苦労のほどがしのばれまして、今までにない親しさを感じました

という読者の感想は、まさか半世紀以上前の言葉とは思えない、今日の令和皇室にも通じる国民の皇室への信愛表現ではないでしょうか。

(昭和の皇室、浩宮殿下(現天皇陛下)を中心に)

昭和天皇・香淳皇后も、現在の令和の両陛下も、時代の大きな転換点にあって、皇室の内外での非常な苦悩をしながら、歩まれてきた。そのお姿に国民は共感し、親しさを感じるのだと思います。

「平成流」は実は「昭和流」

いかがでしたでしょうか?

こうして戦後から美智子さまご成婚(1959年)までの当時の資料を見てみると、決して、今の皇室の慈愛と親しみ、国民との一体感のイメージは美智子さまから始まったものではなく、昭和の香淳皇后が始めたものだということがよく分かると思います。

「高みから見下ろす昭和天皇に比べ、慈愛と親しみのイメージが平成の皇室」…と一般的には言われますが、実際のところは、「香淳皇后が始めた”昭和流”を、若く民間人の皇太子妃が行うことによって、国民が美智子さまに投映してしまった」というのが、“平成流”の実情と言えるのではないでしょうか。

現在、国民から広く親しまれ、愛されている皇室の原形は、“平成流”というよりもむしろ“昭和流”であって、その端緒は美智子さまではなく香淳皇后だった!宮内庁職員の小内誠一さんが「香淳皇后の猿真似」と評価するのも一定の根拠がありそうです。

資料をくまなく読み込むと思いもよらない真実が入ってきます。これからもどしどし、紹介していきたいと思います。