悠仁さまは「1000年ぶりの奇蹟」、愛子さまは「7年ぶりの必然」に、美智子さま“大感動” その驚きの差


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(資料提供:木下聡)

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紀子さまのご実家

10月28日、天皇皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻は、創建100年の明治神宮に参拝された。久方ぶりの皇族方勢ぞろいに、感動の声が相次いでいる。いよいよ来月8日には“立皇嗣の礼”が執り行われ、皇統が秋篠宮家に移ることが確定する。皇嗣家としての重責が双肩にのしかかるが、将来の国母となる紀子さまが壮健ならば全く問題ないだろう。平成は美智子さまの時代であったように、令和は紀子さまの時代になる——そうなるに違いない。

ところで紀子さまのご実家について、「紀子さまは会津藩士の家系」とよく言われる。

紀子さまご尊父・川嶋辰彦氏の母方の祖父・池上四郎氏が会津の藩士だったからだ。

会津藩の関係で皇室に嫁いだのは松平容保の孫で秩父宮に嫁いだ松平節子(入内後「勢津子」に改名)が有名である。昭和も令和も天皇の弟の妃が会津藩出身者であるという共通点は興味深い。

しかし、少し考えてみれば、皇室に限らず、基本的に日本で家系を辿る際には父方の家系をたどっていくことが一般的だ。紀子さまのご実家の父方の先祖は明治時代に学習院教授を務めた川嶋庄一郎氏が有名だが、それ以前の先祖についてはあまり語られることがなかった。

今回、川嶋家の男系先祖を探ってみると、川嶋家が非常に興味深い系譜の子孫であることが分かったため、紹介したい。美智子さまも大変感動なされるに違いない。

川嶋家の家系図

まず、川嶋家の家系図をご覧いただきたい。

紀子さまから父方を3代辿った川嶋庄一郎氏に注目して頂きたい。括弧書きで「川嶋家に養子」と書いてあるのが分かるだろう。

庄一郎氏の父親(紀子さまの曽祖父の父)の名は松浦平吉。

婿養子であったためか、紀子さまご成婚当時のメディアはノンチェックであったようだが、実は松浦家は男系の名門なのである。

松浦氏のルーツは次の通りである。

  1. 現佐賀県と長崎県である肥前国松浦郡が起源(ルーツ)。嵯峨天皇(786-842)の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)が著名の渡辺氏から派生した。
  2. 古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏
  3. 安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)。

いかがだろう。嵯峨天皇、物部氏、孝元天皇など、日本史上、そうそうたる顔ぶれである。

紀子さまの先祖は「嵯峨源氏の松浦氏」

紀子さまの祖先の松浦平吉は出身地が和歌山県であることから、①の嵯峨源氏から分かれた渡辺氏の支流・和泉松浦氏に属するとするのが専門家の間で一致した見解である。

渡辺氏の始祖は、摂津国渡辺(現 大阪市中央区)に住み、同地を本拠地とした渡辺綱

清和源氏嫡流である摂津源氏の源頼光の四天王筆頭とされ、天皇警護の滝口武者の一族で、大江山の“酒呑童子退治説話”などに剛勇の武者として登場することで有名だ。

渡辺氏:
渡辺氏は摂津の渡辺津を本拠地とし、住吉の浜(大阪湾)で行われる天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に従事する天皇警護の滝口武者の一族であるとともに、衛門府、兵衛府など中央の官職を有した。また水軍として瀬戸内海の水軍の棟梁格の武家である。派生氏族に鞆幕府中心の渡辺氏などがある。

Wikipedia「松浦氏」から引用編集

嵯峨天皇から嵯峨源氏が分かれ、嵯峨源氏から渡辺氏。そして渡辺氏から松浦氏が派生した。

ということは、紀子さまは嵯峨天皇を先祖とする天皇の男系女子ということができるだろう。

「松浦」の苗字は、渡辺綱の孫が九州の松浦に下向し、その地名から家名を得たことに由来する。そして、その「松浦」の地名も古代に遡る由緒ある地名であることが分かっている。

『魏志』倭人伝に、「対馬国」→「一大国(一支=壱岐国)」→「末盧国(まつろこく)」と書かれている。「末盧(まつろ)」の地名は、松浦に変化したと考えられる。

吉村武彦『古代天皇の誕生』角川文庫、2019年、16頁

邪馬台国の時代から存在する末蘆(まつろ)国の由緒ある名が時代が下り、「松浦(まつうら)」と読まれるようになったのだ。

そして、この松浦の地に下向した嵯峨源氏・渡辺綱の孫の名前も非常に興味深い。

松浦の地に下向した武士・渡辺綱の孫は名前を「渡辺久/松浦久」と言ったのである。

松浦氏:
松浦氏は渡辺氏の支族で、肥前国の水軍である松浦党の惣領氏族。渡辺綱の子の奈古屋授(源授、渡辺授)の子で、肥前国松浦郡の天皇家直轄の宇野御厨の荘官として九州に下った松浦久(源久、渡辺久)を祖とする。松浦氏は傍流の平戸松浦氏が、江戸時代も平戸藩主家として続いた。

Wikipedia「松浦氏」から引用

「久」は「ひさし」と読む。お分かりだろう。次世代の皇統を担う秋篠宮家の悠仁(ひさひと)親王と読みが重なっているのである。

シンクロニシティを感じずにはいられないのは私だけではないだろう。

悠仁さま誕生は1000年ぶりの「神の奇蹟」

神武天皇以来の皇統に繋がる嵯峨天皇から嵯峨源氏が分かれ、嵯峨源氏から渡辺綱が出た。そして渡辺綱から松浦久が派生し、松浦氏が生まれた。

そして嵯峨天皇から1000年以上が経ち、近代になって、松浦氏から松浦平吉が生まれ、川嶋家に養子に入り、昭和になり、川嶋紀子さまが生まれ、そして、神武天皇から万世一系で繋がる礼宮文仁親王(現・秋篠宮)に嫁ぎ、悠仁親王がお生まれになった…

嵯峨天皇から一本の糸のように別れた枝が、1000年以上の時を経て、壮大なスケールで時代を廻り、現代になって皇統に戻って、一つの「種」を宿したのである。

昨今の皇室は、皇位継承者の減少と共に、皇統の危機が叫ばれているが、この危機的状況の中に紀子さまが悠仁さまをお産みになったのは、神武天皇や嵯峨天皇の思し召しなのかもしれないと思うのは、少し考えすぎだろうか。一方、愛子さまは佳子さまがお生まれになってから7年後に生まれた。9人連続での女児誕生で、世論はどよめいたことも記憶に新しい。

いまこそ悠仁さまが生まれた奇蹟に、感謝すべきときだ。このことを元宮内庁職員の小内誠一さんに伝えたところ次のような回答が戻ってきた。

「小室圭さんだって清和源氏流小笠原氏一門の系譜にある男系男子ですよ? 男系子孫なんて珍しくないことはタケロウさんもご存じでしょう。美智子さまは『ハクが付いた!』と大喜びされるでしょうが、国民はそんなことが大切だと思うでしょうか?」

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