雅子さまご先祖の“偉大な素顔” 田村寛一郎の「私擬憲法」



文/宮本タケロウ

雅子さまのご実家

雅子さまのご実家は言わずと知れた外務事務次官、国連大使、国際司法裁判所所長を務めた小和田恒氏の小和田家です。

小和田恒氏の父、小和田毅夫氏は教育家として長らく新潟で旧制中学(現・新潟県立高田高校)の校長を務めました。そして、その妻の小和田静氏(旧姓・田村静)は雅子さまの祖母となるわけですが、雅子さま祖母の実家である田村家については今まであまりスポットがあたることはありませんでした。

今回は、雅子さまの祖母・小和田静さんの実家、田村家にスポットを当てて、雅子さまのご先祖の偉業を紹介したいと思います。

雅子さまと愛子さま「韓国人疑惑」に驚きの真相 コリアンプリンセス像の謎に迫る

田村寛一郎、雅子さまの“ひいひいお祖父さん”

今回取り上げたいのは、雅子さま祖母・田村静氏の祖父(ひいひいお祖父さん)である田村寛一郎氏です。

田村寛一郎は、1845年、田村寛兵衛の長男として現在の新潟県南魚沼市中に生まれました。田村家は農業を営んでいたが、同時に縮(ちぢみ)商人でもあったそうです。

明治8年(1875年)に家督を継いだ田村は、縮の商売人として縮布製品の品質向上をおこなういっぽう、紺屋と仲買人も手掛けるようになり、明治12年には生産会社を設立、縮布の改良・増産・販路拡張に努めましたが、この会社は最初のうちは売り上げをあげたが、やがて不景気になり、明治20年(1888)に解散してしまいました。

実業家としては不運な結果に終わってしまった田村寛一郎ですが、実業のかたわら政治も志しており、会社経営のかたわら、地元の村議会議長となって村会を運営。明治18年(1886年)には県議会議員にもなったのです。
田村はその後、明治36年まで県議会議員として活躍を続けました。

その後、県会議員を退任し、新潟県塩沢町の町長を明治44年から大正4年まで務め、その後は悠々自適の生活を送り、大正14年(1925年)4月26日、81歳で亡くなったと言われています。

以上が、雅子さまご先祖の田村寛一郎の一生の概略ですが、ここまでは単なる田舎のよくいる政治家の人生のように見えますが、実は、田村寛一郎は一般的な地方政治家ではなく、日本の憲政史に非常な足跡を残していることが知られているのです。

秋篠宮さま「盗聴器が付いている!」の疑心暗鬼 紀子さま「私が付けました」の慈愛 “立皇嗣の礼”リハーサルにて大事件

田村寛一郎の私擬憲法

それは、明治20年、彼が実業家を引退して政治家に転身したころ、「私草大日本帝国憲法案』という「私擬憲法」を起草したことでした。

この田村寛一郎作の「憲法案」が非常に高い民権意識と政治意識を以て書かれたことが今日ではわかっています。

「私草大日本帝国憲法案」の第八十六条で個人の信仰の自由を、第八十七条で演説、出版の自由を、さらに第八十八条で集会、陳情の自由を寛一郎氏はそれぞれ規定している。

もっとも、これらの権利を無条件で認めようというのではなかった。これらの権利を認める規定の前に、「国安ヲ妨害スルニ非ザレバ」とか「国ヲ誹誇スルコトナケレバ」という文章を寛一郎氏は付け加えることを忘れてはいない。

さらに、第九十条では職業選択の自由を規定しているが、興味深いのは第九十一条で外国人との婚姻を認める規定を設け、さらに第百二条で死刑禁止を規定している点である。

寛一郎氏はさらに、第九十五条で財産権の保護も規定している。信仰の自由、演説、出版の自由、集会、陳情の自由、財産権の保護などは、昭和二十一年制定の現行の日本国憲法に類似した規定であ
る。日本国憲法の制定より六十年も前に、新潟県の一県会議員がこのような優れた内容を持つ「私擬憲法」を作成していた点には感銘を禁じえない

川口素生『小和田家の歴史』株式会社KADOKAWA、92頁

いかがでしょうか。信仰の自由や出版の自由、職業選択の自由。そして、死刑の禁止も規定しようとしているとは、非常に先進的な内容と言えるでしょう。

さらに、田村寛一郎の民権意識の先進性と聡明さはこう続きます。

 財産権の保障、現行犯以外の令状の提示、長期間の拘留・拘禁の禁止、拷問の禁止、苦役から逃れることの自由が定められている。

 さらに、第102条で「日本国民ハ如何ナル罪ヲ犯スモ死刑ニ処セラルヽコト無ルヘシ」として死刑を禁止し、第104条で「日本国民ハ其族籍爵位ヲ別タス同一ノ法律ニ依テ其自由権利ノ保護ヲ受クヘシ」として、法の下の平等を規定していた。

あき書房Webマガジン「越後縮の商人は死刑廃止を訴えていた

明治20年の作成ですので、日本はつい20年前までは幕藩体制という封建制の中にあった時代に「法の下の平等」を唱えていたとは、田村の先進性には驚くほかありません。

雅子さまご先祖の苦学

このような田村の聡明さは幼いころからの苦学の賜物であったそうです。

寛一郎氏は若年の頃から家業を手伝う典型的な商人の息子で、当時はあまり目立った存在ではなかったようである。

この頃の寛一郎氏に関して、一つの逸話が残っている。当時、雪深い旧・塩沢町で新刊の書籍を購入するというのは大変な労力と費用とを必要とした。そこで寛一郎青年は一計を案じた。知り合いの僧侶らと読書グループをつくり、それぞれが費用を出し合って新刊耆籍を共同購入し、回し読みをしながら勉強したというのである。

川口、前掲書、88頁

まさに“蛍雪の功”ですね。

こうした田村寛一郎の聡明さは雅子さまにも間違いなく遺伝している…と思いきや、しかし、雅子さま祖母・小和田静の両親は、夫婦ともに他家から田村家に養子・養女に入った夫婦養子だったので、田村寛一郎氏と雅子さまとは直接、血のつながりはないのだとか。

しかし、人間の成長には、遺伝子的な「血のつながり」もそうですが、生まれ育った環境によっても大きく左右されることは科学的に立証されています。

父からも、母からも聡明な人格を継がれた愛子さま

明治日本の聡明な民権家、田村寛一郎の英才教育は小和田家に受け継がれ、令和の御代にこうして雅子皇后という「果実」を実らせることになりました。

そしてその一人娘がもうじき19歳を迎える敬宮愛子内親王です。

(学習院大学に登校される愛子さま)

今年から大学生となった愛子さまは、大学で日本文学を学ばれることを選びました。

愛子さまは父からも、そして母からも聡明で立派なご先祖の遺伝子を継いでいらっしゃいます。成年皇族として、どのような聡明なご活躍をされていくのか、今から楽しみで仕方ありませんね。

雅子さまと愛子さま「韓国人疑惑」に驚きの真相 コリアンプリンセス像の謎に迫る