美智子さま、修羅の形相「お前はクビ!」 実家との直通電話を注意され逆上か



文/佐藤公子

ご難場の伝統は美智子さまから

現在、ご難場として名高い秋篠宮家。様々な事情で離職した職員達の声が、これまで何度も週刊誌を賑わせてきた。たとえば最近では『週刊新潮』2020年3月26日号において、東大卒のキャリア官僚が皇嗣職を依願退職したことが明らかにされた。

「依願退職といえば聞こえが良いですが、実際には、様々なプレッシャーがあって辞めざるをえなかった場合が殆どです」(宮内庁関係者)

秋篠宮ご夫妻のどちらが厳格なのだろうという疑問に、先の関係者は「どっちもどっち」としながらも「紀子さまの“慈愛”のほうが厳しい」と証言する。かつて佳子さまは父殿下を「(私と同じく)導火線が短い」と形容したが、職員たちにとっては、紀子さまこそが宮中の修羅のようだ。元宮内庁職員の小内誠一さんは次のような裏話を紹介する。

「紀子さまの職員へのご指導は、美智子さま譲りです。美智子さまも紀子さまも平民から皇室入りし、肩身が狭かった。『舐められてならない』とばかりに周囲にキツク当たられたと聞いています。

美智子さまは平民といえども大企業の社長令嬢でしたが、紀子さまはまさにアッパーミドル(上位中産階級)でした。そういった微妙なヒエラルキーの差も、紀子さまが美智子さまに気に入られるきっかけになったのではないかと思います」(小内誠一さん)

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山田侍従追放事件の真相に迫る

紀子さまの修羅ぶりは美智子さま譲り——。そんな小内さんの証言を裏付けるエピソードが侍従たちの日記には大量に残されている。これをもっとも端的に象徴するのは、「山田侍従追放事件」である。

美智子さまに諫言をしたら、逆鱗に触れ追放させられた――。そんな冗談のような事件が本当に起きていた。追放された本人・山田康彦さん(1907-1967)は、1933(昭和12)年に宮内省入り、東宮伝育官を務め、1959(昭和34)年から1965(昭和40)年まで東宮侍従長にあった人物である。この経歴からも解るように、明仁天皇(現、上皇)の皇太子時代を最もよく知る人物である。

問題の「追放」は、1965(昭和40)年に起きた。3月31日付けで山田は東宮侍従長を退き、書陵部長に異動した。「侍従長」は「部長」と同格であるため、左遷ではない。しかし当時、東園基文(東宮侍従、1911-2007)は、「転任原因は美智子妃に対する山田の諫言にあった」と橋本明(共同通信記者、1933-2017)に語っていたことが明らかになった。

山田侍従が美智子さまに放った諫言。その内容とは何だったのか?

東園基文 山田さんの諫言の元になったのは、正田富美子さんから東宮御所に手紙が来るたびに美智子妃がご返事を克明に書き送っておられた事実だ。

正田家といえども百年先にはどうなっているかわからない。東宮妃の立場でめったに返事をするものではない、山田さんは美智子妃にこう諫言した。明仁親王がご幼少のころ、貞明皇后に詳しい手紙を書いて出されたことがある。侍てど暮らせど返事がいただけない。お伺いを立ててみると、皇太后は孫とはいえ滅多に手紙を書くものではないとのことだった。

あれは例外的なものだった。従って山田さんの諫言は正しかったと思う。しかし結果は×(バツ)と出てしまった。山田さんは書陵部長に左遷された。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007

御所と正田家に直通電話

美智子さまが正田家とたびたび手紙のやりとり…。たったそれだけが嵐を呼び起こした。我々一般庶民の家なら問題にならないことでも、皇室ではそうはいかない。現在でも紀子さまと川嶋家の濃厚な繋がりが度々週刊誌を賑わす。思い起こせば、雅子さまが実家の関係も週刊誌で取り上げられ、バッシングの対象になった。

だが美智子さまと実家の結びつきは、週刊誌の噂というレベルではなく、侍従たちの証言や日記にすら残されている事実は重要である。橋本氏によれば、先の東園侍従から聞いた同趣旨を村井長正(東宮侍従、1915-1997)からも聞いたという。

村井長正 自分が宮内庁を退いたのは昭和四十年だが、この年に山田さんもクビになった。東宮さんが一番知っている。

美智子妃殿下はご実家にお手紙をお書きになっていた。正田家といえども百年先、いや数千年先まで安泰というわけにはいかない。おふみは慎重になさらなければいけないと妃殿下に直言した。山田侍従長の諫言に妃殿下が怒った。そこまで自由を縛るのか、顔も見たくないと東宮さまにお訴え遊ばしたのではないか。東宮さまは処置を考えられたのだろう。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007

手紙のやりとりを注意されたことに、修羅の形相で「お前、クビ!」と決断された美智子さま。逆切れ、逆上とはまさにこのかもしれない。だが山田侍従が美智子さまに諌言されたのは、はたして手紙の件だけだったのだろうか? 実は美智子さまと正田家には直通電話が引かれていたという証言がある。

美智子妃と富美子(正田富美子、美智子さまのお母さま)は思うように電話もできなかったといわれたが、婚約発表の直後、正田家に引かれた東宮仮御所との直通電話が、御成婚後は富美子の部屋に移され、その後も使われていた。

「お部屋にお茶を運んでいくと、お母さまがよく電話されていました。美智子さまとお話しされているときはすぐわかるんです。にこにこされていますから」(正田家のお手伝い)

奥野修司『天皇の憂鬱』新潮社、2019

直通電話とは交換台を通さないでダイヤルで直接相手につながる電話のことで、簡単に言えばその両者だけを繋ぐ専用の電話回線だ。まさか実母と話したいがためだけに、専用の直通回線を引かれるとは驚きだ。

あるいは、美智子さまは、山田侍従から「実家との手紙のやり取り」を注意されたので、直接に実家と連絡が取れるよう直通電話を引かれたのだろうか?

何が真相か解らないが、少なくとも山田侍従が、こういった美智子さまの普段の行いに疑問を感じていたことは確実だ。

入江日記はかく語りき

この橋本明氏の取材記録は、実際に事件があった1965年よりもかなり後になって公開されたものである。はたしてこれは当時の日記などからも裏付けることができるのだろうか?

実はこれに符合する記述が確認される。侍従長を務めた入江相政(1905-1985)は、当時の日記に次のように記している。

1965(昭和40)年2月27日(土)

山田君来、からだもわるいし、東宮職にゐてもなんにも出来ないので書陵部長にならないかといふ話もあるといって相談、西野さんとも話し合ひ、いゞぢやあないかといふことになる。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

1965(昭和40)年3月19日(金)

山田君と面談、東宮さまのところも困ったものである。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

山田侍従は美智子さまに諫言したがゆえに、窓際に追いやられてしまったのだろうか? また転属前に山田侍従は、皇太子殿下(現、上皇)に次のように諫言したという。

1965(昭和40)年3月24日(水)

山田君が来て東宮さまにいろいろ、申し上げたことについての話、人づかひが荒いこと、つまらない臣下のあらをとりあげないこと、孝養をおはげみになるべきこと、常陸宮さまと御仲よく遊ばすべきこと。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

美智子さまと正田家の往信については言及されていないが、当時の東宮家の殺伐とした雰囲気がよく伝わる文章である。

山田侍従のお人柄

書陵部長に追放された山田侍従。このわずか2年後に他界している。共同通信の橋本氏は、村井元侍従から聞いた話として、次のような驚くべき晩年を紹介している。

村井長正 山田さんは書陵部長に転じた。みるみるうちに山田さんは痩せていった。山田さんは生涯を明仁親王にお仕えしたいと希望した人物だった。転任の発令は突然だった。落胆が命を縮めた形だ。あっという間に他界してしまったんだ。山田さんの未亡人はカトリックの人だ。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007

命を削ってまで美智子さまに諌言した山田侍従の誠実さには驚くばかりだ。入江侍従も著書の中で、現役時代の山田侍従を次のようなエールを送っていた。

山田よ、皇太子さまのいい御相談相手になってあげろ。君はそのために生きているんだから。そして国民の期待にそむかないような、立派なお方に仕上げるんだぞ。

入江相誠『城の中』中央公論社、1959

皇室と国民の安寧を願う山田侍従・入江侍従の声には胸に染み込む何かがある。忠臣とはまさにこのことだろう。はたしてこの二人の声は、美智子さまに届いていたのだろうか?

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