父の死を悲しむ“彬子さま”を追い打ちした「紀子さまの一言」 感動秘話の裏側



文/宮本タケロウ

父親を亡くした悲しみ

保守系月間誌『文藝春秋』の2015年7月号に三笠宮家(正確には寛仁親王家)の彬子女王の手記が掲載されたのは、皆さまはご存知でしょうか。

「父が亡くなり、三年がたってしまった」

との書き出しで、2012年に無くなった父・寛仁親王の逝去時の思い出を書き綴ったエッセーですが、大変人間味の溢れる文章で、最愛の父親を亡くし、立ち直るまでの心境がつづられているので、紹介したいと思います。

三年前の六月のことを思い返してみる。あのときの寛仁親王邸は、かなりの混乱状態だった。

ほんの一時も父の死の悲しみに浸っていることさえできないくらい、毎日のように儀式があるし、御弔問のお客様はひっきりなしに来られる。その間、小さなことから大きなことまで、私自身が判断をして決めなければならないことが次々と目の前にもたらされる。何の知識もなく、資料もほとんどない。おまけに時間をかけて悩んではいられないことばかり。

彬子女王手記『文藝春秋』2015年7月号

病気がちで、いつかはその時が来ると覚悟していたお父上の死。悲しむ暇もなく、まだ二十代の彬子女王に、喪主としての責務が重くのしかかります。

悲しみに暮れる彬子女王を助けたのが、近衛家と千家に嫁いだ2人の叔母さま(甯子内親王、容子内親王)や義叔母の久子妃など、三笠宮家のご家族方でした。

紀子さま、天皇陛下の「秋篠宮批判」にあ然!「助け舟も出さないくせに…」

悲しみから抜け出すきっかけ

わけても、彬子女王の手記は、「悲しみから抜け出すきっかけを作ってくれた方がいた」と言います。

それは、旧宮家で昭和天皇長女を母に持つ東久邇信彦氏。今上天皇の従兄弟で彬子女王とは又従弟にあたる方です。

(東久邇信彦氏ご夫妻)

支えてくださったのは、おばたちばかりではなかった。ほかにも、「しっかりしなければ」と、私が気持ちを切り替えるきっかけをくださった方がいた。

東久週信彦おじちゃまである。信彦おじちゃまは、父にとって従姉(昭和天皇の第一女子であられる照宮成子内親王)の子どもに当たられ、お年も近いことから、大変親しくしておられた。私たち姉妹も菊栄親睦会や宮殿での新年祝賀の際などにお目にかかる機会が多く、幼いころから可愛がっていただいている。

同上

東久邇信彦氏と彬子女王が、幼い頃から交流をされている様子が分かりますね。

おじちゃまは、父が亡くなってからの儀式にほとんど欠かさず出席してくださった。それに加え、お通夜の際
には、人が少ない回の時に「僕、今日もう一回この席入るから」と、何度も祗候してくださった。

「伺候」とは聞きなれない言葉ですが、一般で言う「お通夜」にあたります。皇族が亡くなられて数日後に棺が「正寝」と呼ばれる客間に移され、そこで夕方から夜まで、時間を区切って雪洞の灯りの灯された暗闇の中で、言葉を発することなく、御棺に祗向かい合い、故人を偲ぶ時間が設けられる、これを「伺候」と言います。

親身になってくれた東久邇信彦氏

何度も伺候をして、亡き父を慰めてくださった信彦氏に対し、彬子女王はこのようにお礼を申し上げたとのこと。

お通夜の後の直会の席でおじちゃまにお礼を申し上げると、「いや~、昭和天皇の殯宮祗候のときにさ、トモさんが「お前暇だろ。ここ入れよ。あ、お前はここだ」といろいろ僕たちに指示して、差配してくれたなと思ってさ」と笑っておられた。

父の斃去にあたり、父がされていたのと同じことを、父のためにしてくださったということが、ただただ ありがたいと思った。

同上

伺候の後、彬子女王は東久邇氏に「この歳で喪主をすることになるとは思ってもみませんでした」と言ったそうです。すると、東久邇信彦氏はそっと微笑んでこのように述べました。

「でもね、僕が初めて喪主をやったのは16歳の時だったよ。彬子ちゃんの歳の時には4回やってたかな」

その言葉を聞き、彬子女王は背筋の伸びる思いがしたといいます。

母・昭和天皇長女を亡くした東久邇氏

そう、信彦氏が16歳の時に亡くなったのは、他でもない、東久邇氏の母・昭和天皇長女の成子内親王でした。亡くなった母・成子内親王の喪主を務めたのがわずか16歳の東久邇信彦氏だったのです。

(昭和天皇ご夫妻と長女・照宮成子内親王)

「悲しんでばかりいる場合ではない、私が責任をもって務めなければいけないのだ…」

東久邇氏の言葉に励まされた彬子女王は悲しみから脱して、前向きに喪主を務めなくてはならないと思い返したと、こう述べます。

そこから、私なりに前向きに進んでいけるようになった気がする。

あのとき、おじちゃまに背中を押していただいたことが、私にとっての大きな一歩につながった。無我夢中で
あったし、振り返れば反省すべきことも多々あるけれど、兎にも角にも私が一年間続く儀式で喪主のお役目を
無事果たすことができたのは、おじちゃまの一言のおかげであったと思う。

同上

東久邇のおじちゃまの一言のおかげ…

寛仁親王をはじめ皇族方と親族として交流され、悲しみの淵から彬子女王を救った東久邇信彦氏は昨年の3月にお亡くなりになりました。

病床には叔父にあたる上皇陛下もお忍びで通われたことは有名です。

信彦氏の通夜や葬儀・告別式が行われたのは、彬子女王の父・寛仁親王と同じく、皇族専用の墓地・豊島岡墓地でした。一般に人は全く立ち入り不可のエリアで、荘厳な式だったと言います。
雅楽が奏上される中、祭壇には天皇皇后両陛下(当時)、皇太子両殿下(当時)、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の4家からのお供えが荘厳に並び、その他旧宮家や皇族ご親族の方々のお供えも並んでいたそうです。

昨今、河野防衛相の発言により皇位継承の議論が沸き起こりましたが、“旧宮家の復帰”を議論もせずに頭ごなしに「あり得ない」と一刀両断する意見も少なくありません。

しかしながら、旧宮家には、東久邇信彦氏のように現在の皇族方と親戚として親しくお付き合いされ、心に寄り添って来られた方も多くいらっしゃるのも事実です。

(昭和天皇ご一家と東久邇ご一家)

皇族方と親戚として長らく交流され、お通夜や葬儀も皇族専用の墓地をお使いになるような方を、「復帰などあり得ない」と、ハナから全く考慮に入れないというのは、あまりにも偏った考え方ではないでしょうか。

故・寛仁親王は旧宮家復帰に賛同しておられ、ご長女・彬子女王も「旧宮家の復帰に違和感はない」と述べていらっしゃいます。

一方、紀子さまは…

このような感動秘話がある一方で、紀子さまの逸話も伝えられていますので紹介しますね。先の記事には裏話があると、文藝春秋の雑誌編集者が次のように言っていました。

「彬子さまは紀子さまに不信感をお持ちでした。亡くなられた父・寛仁親王はガチガチの男系派で、皇位継承権を持つ皇族であるにもかかわらず政治発言も厭わないところがあり、紀子さまからすれば力強い味方でした。

そのためでしょうか、葬式などの場で紀子さまは『彬子さん、あなたも父上と同じく男系派ですか?』と何度も聞いてきたそうです。さすがに場違いだろうと…」(文藝春秋編集者)

保守派の中には「秋篠宮家に皇統を移すのではなく、旧宮家に復帰していただきその方に即位してもらうべき」というウルトラC案を出す人もいます。政府にはいろいろな選択肢を考えて頂きたいですね。

紀子さま、天皇陛下の「秋篠宮批判」にあ然!「助け舟も出さないくせに…」