美智子さまの「情報統制」を、元侍従長が告発 「東宮さまの御注文通りになおした」と供述



文/佐藤公子

慈愛に満ちた美智子さま

令和2年4月以降、美智子さまは仙洞仮御所(高輪皇族邸)から一歩も外に出られない生活が続いている。8月6日に定例記者会見で上皇侍従長の河相周夫氏は「コロナ感染などを考慮して」とその理由を発表したが、内情をよく知る関係者によれば「二重権威などを懸念する週刊誌に心痛め、活動する気力が起こらないから」と語る。

また『女性セブン』(2020年9月10日号)は、外出自粛から起こる様々なストレスで5月から原因不明の微熱が続いてられることを報じているが、先の関係者は「ストレスの主原因は、ニュースのコメント欄などで批判が重なるからだろう」と語る。

平成時代の女性週刊誌といえば美智子さまと紀子さま「聖母マリア」のごとく絶賛し、雅子さまを「不適合者」として批判することが常であった。しかし今やその流れは完全に逆転し、かの慈母・美智子さまですらストレスを感じるほどというのは驚くべきことだ。

だが、さるベテラン皇室ジャーナリストは次のように語る。

「美智子さまはメディア操作が大変うまく、必ずしも報道された内容が実像を表してはいません。事実、昭和から平成初期にかけて宮内庁に務めていた侍従たちの日記を紐解くと、美智子さまはむしろ批判の対象です。

侍従長を務めた入江相政氏も、日記の中で『東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやる』(昭和38年3月22日)などと慈愛・慈悲からかけ離れた美智子さまが描かれています。さすがの入江氏も誠に不愉快であると書くほどです(昭和38年3月23日)」(ベテラン皇室ジャーナリスト)

入江氏は多くの皇室著作を残したが、どうやらそれが美智子さまはお気に召さなかったようだ。しばしば美智子さまは「女優」であると言われるが、果たしてその実像はいかがなものなのか?

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美智子さまと侍従長の関係

確かに侍従たちの日記や手記では、美智子さまは慈母ではなく修羅というイメージが強い。

まして末端の侍従ではなく、天皇の側近中の側近である侍従長が「不愉快」とまで明言するとは驚きだ。平成に美智子さまの近くにお仕えした小内誠一さん(元宮内庁職員)も「ご難場として知られる秋篠宮家以上に、昭和時代の東宮家は殺伐としていたと聞いていましたが、当時の重鎮らがここまでハッキリ書いていたとは」と驚きを隠せない。

「入江相政氏はオクのトップである侍従長も務められました。いわば昭和天皇が最も信頼した側近の一人です。長年の功績が認められ、勲一等瑞宝章受章を受勲、従二位を追贈されるばかりでなく、イタリア共和国功労勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ(cavaliere di gran croce)を受勲するなど重大な功績を残した人物です。また死後に刊行された日記は、戦後史研究の必携書としても名高い。その入江氏が美智子さまをこうも端的に表現していたとは驚きです(小内誠一さん)

美智子さまの「情報統制」

ところで美智子さまは、入江氏の著作物に大変ご不満がああり「恨んでいらっしゃった」ことは既に述べたとおりだ。またさらに興味深いことに、東宮家が「情報統制」をしていたことをこの入江氏が告発していることだ。

鈴木さんが持ってきてくれた原稿「皇室外交」「お写真」を東宮さまの御注文通りになほす。書き直してゐてなんだかうつろな気がする。(昭和38年12月31日)

『入江相政日記』第3巻、1990

美智子さまは、公表される写真などすべてチェックされ、写りの良いものだけを用いられたことはよく知られる。たとえば、宮内庁の嘱託カメラマンを務めた中山俊明さんは「昭和天皇の時代も、写真のクレームといえばたいていは皇太子(現天皇)一家が住む赤坂からやって来た」「クレームがつくのはほとんどの場合、美智子妃と紀宮の写真だった」と当時の状況を指摘している(『紀子妃の右手』情報センター出版局、1991)。

美智子さまの検閲を経たものが「皇室の本当の姿」として報じられた。それが平成時代だった。まさかその事実を侍従長が告白していたとは驚くばかりである。苦難に一言も文句を言わず耐え抜かれた雅子さまこそ、本当の慈母だったのだ。

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