雅子さま、紀子さまの「衣装かぶり問題」 どちらに責があるのか、歴史学的に考察



文/宮本タケロウ

雅子さまと紀子さまの衣装かぶり

明日9月11日は紀子さまのお誕生日ですね。メディアからの質問に答えた文書を発表される予定ですが、やはり注目の的は眞子さまの結婚問題で間違いないでしょう。立皇嗣の礼が新型コロナで延期になってから、眞子さまのお気持ち発表もないままになっています。

国民の多くはお二人の結婚に賛同しきれない心境だと思いますが、それでも眞子さまの優しい笑顔をもう一度見たいという願いは同じだと思います。紀子さまは母親としてどのように娘の結婚に関与していくのでしょうか…。

前置きが長くなりましたが、本題に入ります。紀子さまと言えば、雅子さまとの「衣装かぶり」がよくやり玉に挙げられます。

(いわゆる「衣装かぶり」)

「衣装かぶり」についてはご本人方が納得の上でわざと衣装をかぶらせているのであれば外部の人間が何も言うことはありませんが、今回は「衣装かぶり」について、もう少し幅の広い視野から、女性皇族の衣装の変遷から論じてみたいと思います。

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皇族と和服

まず、“皇族と衣服”というテーマについて、女性皇族は和服を着ますが、男性皇族は和服を着ないという点がよく言われます。

確かに、陛下をはじめ、男性皇族は公式の場で和服を着ないことが現在の不文律となっています。

平成時代に侍従長を務めた渡邊允氏はこう述べます。

ところで、「皇后さまは和服をお召しになっているのを拝見するけれど、天皇陛下はどうなのですか」という質問も時々受けます。

陛下は公式な場で和服をお召しになったことはないと思いますが、夕方、お食事の後、何か急の用事があって居間に伺った時などに、和服を着ておられることが時折ありました。ただ、そういうリラックスされた時でも、着流しというのは一度も拝見したことはなく、いつも袴を付けておられました。

渡邊允『天皇家の執事』文藝春秋、31頁

公式には洋装、プライベートでは和装という振り分けは戦前からも同じだったようで、旧宮家出身の作家・竹田恒泰氏もこのように述べています。

明治時代、私の曽祖父が紋付羽織袴で写っている写真があります。でもそれは、公式なものではなく、極めてプライベートな、家族との写真です。これにより、明治期には、皇族男子であっても、普段着として着流し、羽織、袴など(つまり武士の服装)を身に着けることはあったことがわかります。

(中略)次に、現在、「皇族女子は着物をお召しになることがあるが、皇族男子は着物をお召しにならないこと」について考えます。結論的には私もよく分かりません。

竹田恒泰氏ブログ(yahooブログサービス終了のためすでに閉鎖)

竹田恒泰氏は「分かりません」と率直に述べますが、今回調べを進めてみると、確かに「女性が着物を着るのに男性が着物を着ない」という状況に確たる理由はないということが分かりました。

というのも、現在の女性皇族が公の場で和装を着るという状況も、明治以来の近代皇室の歴史から見れば、昭和(戦中・戦後)からのほんのわずかな流れに過ぎないからです。

なんと、女性皇族が公の場(儀式以外)で和服を着る現在の状況が始まったのは、終戦の1年前1944年のことだったのです。

女性皇族の衣装の変移について

三笠宮家の彬子女王の論文「女性皇族の衣装の変移について」に詳しく書かれますので引用しましょう。

戦況が厳しくなってくると、国民は苦しい生活を余儀なくされる。国民とともにある皇室でも国民生活に配慮し、簡易な「宮廷服」と呼ばれる衣装が考案され、様々な場面で着用されるようになった。

宮廷服とは、戦時中の昭和19(1944)年、香淳皇后、秩父宮妃殿下、高松宮妃殿下、そして当時の式部官らがご相談のうえ作られた、上半身は細い和服のような襟合わせで、白のパイピングがしてあり、下半身は袴のようになっている、三笠宮妃殿下の言をお借りすれば「乙姫様のような」二部式の衣装である。

彬子女王「女性皇族の衣装の変移について」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第24号・平成31年3 月

「乙姫様のような」とはなんともかわいらしい表現ですが、宮廷服の実物はこのようなものでした。

(宮廷服)

白黒で分かりづらいですが、明治大正時代の女学生の格好、現在でも女子大生の卒業式に用いられる衣装に似ているように思えます。

これは、海外からの輸入が禁止されたので、洋服地が手に入らなくなり、手に入る日本の布地で作れるものを、ということで始まったとのことです。戦時中は女学生の制服もセーラー服にモンペ姿だったことを思い出します。

この“宮廷服”は戦時中も宮中での儀式で着用されましたが、戦争が終わった後も、厳しい国民生活に配慮して着用が続き、終戦7年目の1952年の新年祝賀の儀になるまで着用され続けました。

戦時中の宮中での儀式は、この宮廷服の上に、緞子のような厚手の織物を肩衣のように羽織り、勲章をつけてお出ましになっていた。当時は、外へのお出ましの時も、室内でも宮廷服をお召しになっていたという。(中略)

戦争が終わり、宮中での儀式が通常通り行われるようになっても、時世に配慮し、宮廷服でのお出ましは続いた。昭和26(1951) 年5 月17 日の貞明皇后の崩御の時も、香淳皇后以下、妃殿下方は黒の宮廷服で臨まれた。
しかしその後、一番重い新年祝賀の行事は、香淳皇后から、直宮の三妃殿下方は「お掛け」というお召し物を拝領され、数年間はそれをお召しになっていた。

同上

1951年の貞明皇后ご崩御時は宮廷服で、翌年の新年祝賀の儀は「打掛」だったとあります。

現在は洋装で行われる新年祝賀の儀に「お掛け」という和装で臨んでいたというのは興味深いですね。

皇族女性の和服は戦後から

彬子女王の同論文によれば、その後、公の場で女性皇族が和装を着る機会が増えていったのは、1950年代からであることが書かれます。

香淳皇后は昭和27(1952)年10 月10 日、第4 皇女であられる順宮厚子内親王殿下の御婚儀の折には和服をお召しになったことが知られている。この辺りから徐々に和服を公の場でお召しになる機会が増えていくようである。

同上

そして、1954年になって、明治時代に制定された公務員の服制に関する法律(「大礼服」などの着用義務)が廃止されたことが画期的なきっかけになったとそうです。

そして、昭和29(1954)年7 月1 日、「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」により、明治時代から連綿と続いてきた服装令は廃止された。

以降、宮中儀式等での女性皇族の服装は、制度で定められたものではなく、時の皇后陛下を始め、妃殿下方の思し召しによって柔軟に変化するものとなっていくことになる。

同上

いかがでしょうか。「皇后陛下を始め、妃殿下方の思し召しによって柔軟に変化するもの」という点がとても面白いですね。

「衣装かぶり」は国民へのサプライズ!?

このように、戦中戦後から、女性皇族の衣装の在り方は非常に流動的に変化し、世相や時の皇后や女性皇族の意見を取り入れつつ、今に至りました。

平成時代には「雅子さまと紀子さまの衣装かぶり」が云々と言われましたが、女性皇族の衣装に関するこうした流動的な変遷を見ると、平成の「雅子さまと紀子さまの衣装かぶり」も、平成時代の新しい伝統だったと言えるでしょう。

女性皇族の衣装は、「皇后陛下を始め、妃殿下方の思し召しによって柔軟に変化するもの」と先ほど述べましたが、「衣装かぶり」をした雅子さまと紀子さまの胸中をさぐると、同じ世代の若い女性皇族が衣装を合わせることで、賓客の心を和ませようという意思があったと言えるのではないでしょうか。

(いわゆる「衣装かぶり」)

こうして考えてみると、「衣装かぶり」は実は「ペアルック」と言うほうが適切かもしれません。

「衣装かぶり」改め「ペアルック」は、常にお互いを尊敬し、支えあった、仲睦まじい平成時代の2人のプリンセスの我々国民に対する嬉しいサプライズだったのかもしれませんね。

眞子さま虜にした、小室圭さん「夜の強さ」 元恋人「徹夜も辞さない努力家」と絶賛