美智子さま、愛子さまに「絶縁」を通告 上皇職「責任は雅子さまにある」



文/佐藤公子

美智子さま、眞子さまへの慈愛

美智子さまは11日、上皇陛下と共に皇居を訪ね、宮内庁病院において定期検診を受けた。奇しくも同日は紀子さまの誕生日でもあった。同日発表された文章において紀子さまは、延期が続く眞子さまの結婚行事について「長女の気持ちをできる限り尊重したい」と思いを滲ませた。

「紀子さまは眞子さまの結婚を半ば容認した形となりました。またこの日に合わせて美智子さまが検診を受けられたのは、紀子さまが発表された文書の内容を知っての『援護射撃』でしょう。おかげで眞子さまに対する報道量が和らぎました。美智子さまの孫娘を思う慈悲の心には感動を禁じ得ません」(宮内庁関係者)

初孫を愛おしく思われる美智子さまの優しさが胸を突く。美智子さまと眞子さまの心温まるエピソードはこれまで何度も報じられてきた。一方、美智子さまと愛子さまのエピソードは少ない。なぜだろうか? 今回は、美智子さまと愛子さまの「断絶」を検証していきたい。

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愛子さまの養蚕

宮中での養蚕は、1871(明治4)年に昭憲皇后によってはじめられ、今日にように神事の形をとるようになったのは1917(大正6)年からである。

この皇后による養蚕は、「男耕女織」「夫耕婦織」という古い伝統的職業観を現代に復古させたという側面と、近代日本の主力輸出品は生糸を産業奨励するという側面があった。皇居の一角に建てられた紅葉山御養蚕所において、毎年、5月から7月にかけて皇后陛下は職員と共に養蚕に当たられ、そこで生産された絹糸は皇族方のお召し物や、海外来賓への贈答品として使われる。また美智子さまが紡がれた生糸が正倉院の弦楽器復元に使われたこともある。

今年も5月29日に雅子さまが“御養蚕始の儀”に臨まれ、7月の収穫に向け定期的に養蚕の作業に取り組まれている。また宮内庁は12日、愛子さまがご自宅の一角で、小学3年生のころより養蚕されていたことを明らかにし、写真を公開した。授業の一環で蚕を飼育し、愛子さまはをそれを自宅に持ち帰り、10年近く交配を続けているという。また関係者によれば「雅子さまと二人三脚で蚕を育てていらっしゃる」という微笑ましいエピソードも聞かれた。

桑を食べる蚕(宮内庁提供)愛子さま撮影

このタイミングでの発表に騒然

“天皇の稲作”と“皇后の養蚕”は、「男耕女織」「夫耕婦織」という言葉が示すように、東アジア文化圏における象徴的職分だ。それだけにこのタイミングでの唐突な発表は驚きをもって報じられた。また愛子さまが養蚕に長らく親しまれてきたことも、初めて報道されたことである。

「“養蚕と言えば美智子さま”というイメージが大変強い。美智子さまの養蚕に、眞子さまや佳子さまがお手伝いに来ることは度々報道されています。特に平成24年に皇后さま喜寿記念特別展で公開された、美智子さまが眞子さまに送った“養蚕の思い出”を語る手紙は有名です。平成の頃、美智子さまは適応障害の雅子さまに“養蚕”を託すのではなく、眞子さまに託すのではないかと噂されていたほどです。

一方、美智子さまが愛子さまと養蚕を楽しまれたという話はありません。まして愛子さまが養蚕に親しまれていたことすら初めて知りました。ここにきて突然の発表に、私を含めメディアは驚きを隠せないというのが現状です。なぜこれまで表に出てこなかったのでしょうか」(全国紙社会部記者)

愛子さまが動物に幼少期から親しまれて、動物保護などに並々ならぬ関心があることは良く知られるが、10年近く蚕を飼育し続けてきていたとはまさに晴天の霹靂ともいえる新情報だ。

「美智子さまに遠慮して発表できなかったのかもしれませんね。なにせ美智子さまは宮内庁編集で『皇后さまとご養蚕』(扶桑社)という写真集まで出してしまうほどなので…。

また、美智子さまが眞子さまや佳子さまと養蚕されてきたにもかかわらず、愛子さまはその輪の中に入れさせてもらえなかったことも明らかになりました。平成の頃、当時の天皇家と東宮家の“疎遠”が度々報道されていましたが、これが事実であることを裏付ける傍証にもなるでしょう」(同前、全国紙社会部記者)

また皇后の象徴である養蚕を、愛子さまが親しまれてきたことに「意味」を見出す声も多い。

「養蚕は“皇室色”が強いものです。それを愛子さまが続けられてきたと発表することは、意味があると考えてよいのではないでしょうか。女性天皇や女性宮家の創設にあたり『愛子さまの心の準備はできている』というメッセージであるように思えてなりません」(同前、全国紙社会部記者)

平成のころからあった皇室の“断絶”

令和の天皇ご一家と上皇ご夫妻が“疎遠”だったことは、平成の頃から有名だ。

2006(平成18)年12月20日の天皇陛下(当時)の会見がその発端の一つだ。「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪を引くことも多く、私どもと会う機会が少ないことです」という陛下のご発言を受けて、翌年の2月、皇太子殿下(当時)は「天皇陛下の愛子に対するお気持ちを大切に受け止めて、これからも両陛下とお会いする機会を作っていきたいと思います」と答えた。

しかし2年後の2008(平成20)年2月13日、宮内庁の羽毛田信吾長官(当時)が定例会見で「愛子さまの参内が依然少なく、両陛下も心配しておられる」と皇太子殿下に対して異例の苦言を呈した。天皇家の家族問題、いわばオクの部分に、オモテの存在である宮内庁長官が公の場で批判を加えたことに、大変な衝撃が走った。もとより宮内庁長官が独断で皇太子を批判するはずがなく、そこには両陛下の強いご不満があることは間違いないだろう。

この騒動をうけ評論家の保坂正康さんは「今回の事で私が感じたのは、平成皇室の亀裂は我々が感じていた以上に深まっている」と述べ、東大名誉教授の御厨貴さん(近現代史)は「理想のロイヤル・ファミリーだったはずの皇室が、ついにどん詰まりまで来てしまった」と嘆いている(『皇太子と雅子妃の運命』文藝春秋)。

美智子さまの絶縁通告

当初、皇室の“断絶”は、雅子さまの適応障害を軸に、それを守る皇太子殿下と、不満を隠しきれない天皇陛下と美智子さまという構図で描かれてきた。その中にあって、愛子さまが半ば“一人ぼっち”の状態だった。

今回の「愛子さまの養蚕」から明らかになったことは、美智子さまから養蚕のお手伝いに招待されることもなく、対外的に「養蚕を続けている」と発表することもできず、赤坂御用地のなかでひっそりと続けてこられた、愛子さまと雅子さまの「孤独」の深さだろう。元宮内庁職員の小内誠一さんは次のように語る。

「愛子さまが養蚕をされていたことは(今回の発表で)初めて知りました。他のメディアも同様に驚いたことでしょう。雅子さまの適応障害などがあり、東宮家のオクは厳戒態勢が牽かれ、宮内庁からしても“東宮御所は神秘のベールに包まれた場所”という認識がありました。

私は上皇ご夫妻の近くに仕えていましたが、やはり当時の皇太子ご一家と“仲が良い”とは言えない状況でした。雅子さま・愛子さまに対する美智子さのプレッシャーは常にあった。御代替わりしてようやく愛子さまの養蚕が発表できるようになったというのが真実でしょう」(小内誠一)

だが、さる上皇職は次のように内情を打ち明ける。

「美智子さまが愛子さまを快く思っていなかったことは有名な話です。色々な事情があり、愛子さまが皇居に遊びに来れない期間が続いてた時、美智子さまは『来たくなければ、もう来なくて結構です』と絶縁を言い渡したほどです。雅子さま憎けりゃ、その子も憎いと言ったところなのでしょう。やはり責任は雅子さまにあるると思います。適応障害を理由に挨拶に来られなかったので。

ですが心優しい美智子さまは慈愛に満ちたお方です。雅子さまと愛子さまが誠意をもって謝罪されれば、必ずやお許しが得られるでしょう。これも美智子さまが下された慈悲の試練なのです」(上皇職)

愛子さまが18歳になった今も公式行事をの除いて美智子さまが愛子さまに御会いになることはないという。

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