明治天皇は「愛子に皇統を継がせよ」と言っていた!“五箇条の御誓文”と“神功皇后”の遺徳



文/佐藤公子

女性天皇

推古天皇以来、古代から多く存在した女性天皇を現行の皇室典範は認めていない。

これは明治時代に旧・皇室典範が制定された時代の男女差別、明治国家のマッチョイムズ/男尊女卑を背景としていると言われている。

よく言われるのは「天皇は陸海軍の大元帥となる存在であるため、女性は天皇になれなかった」という理屈であり、確かに大元帥として軍服を羽織る明治天皇の御真影は明治国家のマッチョイムズを象徴した存在に見える。

(明治天皇)

しかし、皇室の歴史に詳しい歴史家・原武史による『皇后考』を参照すると、実は、明治初期はむしろ、ある「女性の姿」が富国強兵を率いるイメージで語られていたことが分かる。富国強兵を率いる女性イメージ、それは神話に登場する神功皇后だ。

神功皇后は第14代の仲哀天皇の皇后で応神天皇の母。朝鮮半島に渡海して新羅を攻めたことで知られている伝説的な皇后で、近世までは皇后ではなく第15代の天皇とされている資料もある。

実は、この神功皇后、明治時代に殖産興業の資金確保のために発行された切手や紙幣に明治天皇や初代の神武天皇を差し置いて、印刷されていたのである。

殖産興業の資金確保のための「大日本帝国政府起業公債五百円証言」は、一円券と同じく、一八七八年に原版が完成し、一八八一年に発行されている。切手は一九○八年二月発行の五円切手と十円切手で、これまた日本で初めて図案に人物を取り入れた普通切手であった(郵政博物館所蔵)。
これらに共通しているのは、神功皇后が刻まれていることである。人々の目に触れやすい紙幣、起業公債、切手に天皇でなく、皇后が刻まれているのだ。
特に紙幣は、一円券、五円券、十円券のいずれにも神功皇后が刻まれており、一八九九年十二月まで使用されることによって、神功皇后を天皇以上になじみ深い存在にさせるのに貢献したと思われる。改造紙幣には、「神功皇后札」という愛称までつけられた。

原武史『皇后考』講談社、45頁
(神功皇后が印刷された紙幣)

なぜ、明治天皇や初代の神武天皇を差し置いて神功皇后が切手の図柄に採用されたのか、それは神功皇后の知名度が理由だった。現在では「神功皇后」と聞いてもピンとこない人が多いが、実は、明治時代においては神功皇后は人々の間でよく知られた存在であったという。

歴史学者の塚本明は、江戸時代の神功皇后伝説を検討した「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」(「史林』第6号、一九九六年所収)の「むすびにかえて」で、牧原憲夫を批判しつつ、こう述べている。
「明治政府が文明開化策を打ち出した時に、なぜ神功皇后を持ち出したのかが問われなければなない。それが国民国家のシンボルになりうるためには、民間に未知の存在では有効ではない。」

これは非常に重要な指摘である。塚本の指摘を応用すれば、なぜ神武天皇ではなく神功皇后だったのかという問いに対して、神武天皇が「民間に未知の存在」であったのに対して、神功皇后はよく知られた存在であったからだという仮説を導き出すことができる。

同上、45頁

前掲の原武史『皇后考』は、神功皇后は庶民の間で「「三韓征伐」を果たした軍神として強い意志、勇敢さなどとともに、妊娠中に出征、凱旋して出産するという記紀神話の記述から、安産信仰、ことに腹帯信仰の対象であった」として親しまれた存在だったと、描写している。

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女性が軍神だった明治時代の日本

このようなことを考えると、女性の神功皇后を強い軍神として崇敬していたのが明治時代初期の日本人のメンタリティだったと言えるだろう。

そしてそれは、明治初期に琉球処分を皮切りに中国の清と係争が起こった際、宮内省御用掛の副島種臣が明治天皇・昭憲皇太后に奏上した内容にも現れている。

先述の『皇后考』には宮内省御用掛・副島種臣の奏上の様子がこのように記されている。

副島種臣が皇后に対して述べた言葉を、元田永孚は驚きながら聞いている。

方今支那ヨリ日本ノ琉球処分ヲ非トシ既二昨日ノ新聞紙二載セテ或ハ将二紛議ヲ起サントス事若シ調ハサレハ開戦モ測ルヘカラス支那卜戦ヲ開カハ容易二勝敗ヲ決シ難シ故二皇上陛下ハ長崎二 御馬ヲ進メ玉ヒテ大元帥ノ御指揮アラセラルヘケレハ、皇后陛下ニハ神功皇后ノ例ヲ以テ支那二御打渡リアラセ玉フノ御予定然ルヘシト存シ奉ルナリ種臣老骨ナリト雌トモ敢テ人二後レス随行ノ覚悟ナリ(前掲『元田永孚文書』第一巻。傍点引用者)

天皇は長崎にとどまるのに対して、皇后は「神功皇后ノ例ヲ以テ」中国に渡るべきだ、その際には自分も随行すると主張したのである。
副島のこの言葉に注目したのが、前掲「御一新とジェンダー』で皇后美子を取り上げた政治学者の関口すみ子である。関口は、明治中期までの皇后が、「「神功皇后」の再来、「雄々しい』存在と称えられることが少なくない」している。

皇后の反応はどうだったか。「善クモ心ヲ用ヰテ申シクレタリ今日ノ形勢一大事ナリ猶考ヘァラハ申シクレョ」(前掲『元田永孚文書』第一巻)という言葉からは、まんざらでもなかった様子が伝わってくる。元田は「其の御大度に深く感銘」したという(前掲『昭憲皇太后実録」上巻)

同上、100頁

日本と大陸との間で戦争が起こったら、神功皇后のように皇后が大陸へ渡って戦争を指揮するべきだ…副島のセリフからは明治初期の日本人に「女性は大元帥になれない」という固定観念は存在しなかったということがうかがえる。

女性でも陸海軍を統帥する大元帥たることが出来る、このことは次の記述からも明らかだ。

一八八七年一月、皇后は天皇とともに、孝明天皇二十年祭のため京都に向かった。(中略)武豊沖から横浜までは再び軍艦浪速に乗った。

「(前略)皇后が軍艦で長旅をなさるのは、日本の歴史上かつてない壮挙でした。荒海のうねりに艦が揺れても平然とされるご様子に、お供の者たちは、

神功皇后が三韓征伐に向かわれた時も、このようであったのだろうか

と、ただ驚嘆するばかりでした。」

皇后が軍艦浪速に乗った日の模様をこう記すのは、生誕百五十年を記念して明治神宮が編集した「昭憲皇太后さま御生誕百五十年記念』(明治神宮、二○○○年)である。

同上、102

原武史『皇后考』は皇后の勇ましい様子を「その態度は、油のにおいが不快で、軍艦に乗るのを嫌い、船酔いもしやすかった天皇睦仁とは対照的であった」と、明治天皇よりも猛々しかったとし、必ずしも女性だから軍人になれないとか、大元帥になって軍隊を率いることはできないなどと、明治初期の日本人は考えていなかったことが分かるだろう。

明治初期の神功皇后に関する言説を考えると、明治時代に男尊女卑の皇室典範が採用されたのは、「たまたま明治天皇が男性だったからに過ぎない」と言うこともできるかもしれない。

明治天皇は女性天皇を認めている

現在の日本は、天皇がもはや大元帥ではなくなり、制度上、男尊女卑は廃止された。

今回の記事で明らかなように、明治初期の日本人すら持っていなかった男尊女卑のメンタリティに固執して、「女性は天皇になれない」などとする主張は時代錯誤以外の何物でもない。

女性天皇を認めること。これは、明治天皇の勅語「五箇条の御誓文」にも、その意思を読み取ることができる。

  • 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ:広く会議を開いて、すべての政治は人々の意見によって行われるようにしましょう。
  • 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ:上の者も下の者も心を1つに、国を治めていきましょう。
  • 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス:身分にかかわらずに、誰もが志を全うし、その意思を達成できるようにしましょう。
  • 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ:今までの悪しき習慣はやめて、国際社会に合った行動をしましょう。
  • 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ:新しい知識を世界から学び、天皇が国を収める基礎を築いていきましょう。

いかがだろうか。

五箇条の御誓文で、「悪しき慣習はやめ、新しい知識を世界から学ぼう」と唱え、神功皇后を崇敬していた明治天皇は女性天皇を認めていたといっても過言ではない。

今こそ、明治天皇の「五箇条の御誓文」の精神と神功皇后のご遺徳に立ち帰って、女性天皇を認めるべき時に来ていると声を大にして訴えたい。

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