天皇陛下「靖国神社に親拝」の条件とは 宮内庁長官・侍従たちの証言を紐解く



文/小内誠一

終戦記念日を迎える

もうすぐ8月15日がやってくる。メディアでは「終戦記念日」と表現されるが、言い方を変えれば「敗戦記念日」とも表現できる。この終戦記念日にあわせて毎年のようにテレビや新聞が取り上げるのは、「首相や政治家の靖国参拝」「天皇の靖国親拝」だ。すでに靖国神社は高度な政治問題に発展していて、国の要人が参拝することすら国内外から頻出を招くことになる。

「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」という超党派の議員連盟があるが、政治家ともあろうものが一人で靖国参拝すらできとは情けない限りだ。なお右系・保守系に属する安倍首相ですら、参拝は2013年12月を最後にそれ以降は一度もできずにいる。

ところで右派・保守派にとって「首相の靖国参拝」は一里塚にすぎず、真の最終目標は「天皇の靖国親拝」だ。言い方を変えれば、天皇の靖国親拝は到底達成できそうにないので、ひとまず「首相が靖国参拝できないのに、陛下が親拝するはずない」ということにして、(これもまた達成できそうにない)「首相の靖国参拝」の実現にこだわるのだ。

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なぜ天皇陛下は靖国親拝しないのか?

靖国神社は何のために建立されたのか? それは天皇のために戦死していった者たちの慰霊と顕彰のためだ。ゆえに、天皇のために死んだわけではない者、たとえば明治維新で朝廷側と戦い死んでいった会津藩の兵たちは祀られていない。2016年に亀井静香氏(元自民党建設大臣大臣)と石原慎太郎氏(作家、元東京都知事)などの働きかけで「賊軍と称された方々も、近代日本のために志をもって行動した」と主張し、朝敵であっても靖国合祀の対象にするよう働きかけたが、拒否された。

この時の靖国宮司は徳川康久氏で、名字が示す通り、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の曾孫にあたる。ゆえにむしろ朝敵の側の出自であり、徳川宮司個人としては「賊軍でも合祀すべき」という意向もあったようだ(島田裕巳「靖国神社・元ナンバー3が告発した「靖国が消える日」の真意」現代ビジネス2017年8月3日)。

にもかかわらず朝敵の合祀が否決された理由は、間違いなく日本遺族会や崇敬者総代会などの反発だ。そもそも靖国神社宮司に松平永芳氏を推薦し、A級戦犯合祀を後押したのは時の日本遺族会会長・石田和外氏(元最高裁長官、日本会議議長)であったことは夙に知られる(『靖国戦後秘史』毎日新聞社)。

靖国神社にA級戦犯合祀を進めるにあたり、松平宮司や石田氏は何度も宮内庁を訪れ是非を尋ねていた。宮内庁は陛下の代理人として「A級戦犯など合祀しては、陛下が参拝できなくなりますよ」と何度も警鐘を鳴らしていた。このことは宮内庁内でも有名な話で、私も先輩方から何度も聞いているから間違いない。しかし靖国神社はA級戦犯を合祀を強行し、これを境に昭和天皇は靖国神社に親拝しなくなった。

竹田恒泰『天皇の国史』における「靖国神社御親拝」の正誤

侍従たちの証言

ここで重要となるのは、靖国神社側は、昭和天皇の代理たる宮内庁の警鐘を無視してA級戦犯を合祀した事実である。よって合理的に考えれば、昭和天皇が靖国神社に親拝しなくなったの理由は、靖国神社がA級戦犯を合祀したからだ。

ゆえに、保守派がもし「天皇陛下に親拝いただきたい」と心から願うのであれば、A級戦犯を合祀した靖国神社を責めるべきところである。しかし保守派にとっては「A級戦犯を合祀した靖国神社に天皇親拝を!」であるため、なぜか靖国神社を疑問視することはない。

なので昭和天皇が靖国を親拝しなくなった理由について、「A級戦犯合祀」を原因とするのではなく、「三木武夫首相が『公人ではなく私人として参拝した』などと発言したために、公的存在である天皇陛下が参拝できなくなった」という理論を構築している。

もちろん天皇が私人として参拝するのか、公人として参拝するのかは重大な問題であり、これも昭和天皇が靖国親拝をやめた一因として考えられるだろう。だが、やはり主原因はA級戦犯以外には考えられない。そこで侍従たちが残した日記などの資料を再読し、その根拠を上げていきたい。

富田メモ

昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示した根拠として最も有名なのは富田メモだ。富田朝彦(1920-2003)は昭和天皇晩年の宮内庁長官を務めあげた人物として知られる。その富田長官が昭和天皇と交わした会話をメモの形で残していたのが「富田メモ」だ。次のようにある。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ

富田メモ

メモにある「松平」とはA級戦犯を合祀した松平永芳宮司の父(松平慶民)のこと、「松岡」「白取」とはそれぞれA級戦犯の松岡洋右と白鳥敏夫のことである。「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」という一文こそが、昭和天皇の気持ちを端的に物語っていよう。

卜部亮吾日記

富田メモが世に出たのは2006年。その年は小泉純一郎首相が終戦記念日に靖国神社を参拝したこともあり、このメモばかりが有名になったが、その他にも多くの証拠が存在する。たとえば昭和天皇と香淳皇后に仕えた卜部亮吾侍従の日記には次のような記述が確認される。

靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯

直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず(2001年7月31日)

『卜部亮吾侍従日記』第5巻、朝日新聞社

先の富田メモとほとんど同趣旨だ。この日記は平成13年(2001)のものであり、すでに昭和天皇が崩御された後のものである。つまり昭和天皇の靖国親拝取り止めの原因が「A級戦犯合祀」にあったことは、宮内庁内でよく知れ渡った事実であったことを裏付ける。

また昭和天皇の大御心に反してA級戦犯合祀を強行した松平宮司を次のように。

靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿(2001年8月15日)

『卜部亮吾侍従日記』第5巻、朝日新聞社

また松平宮司の評判は宮内庁内でも芳しくなかったことは、入江相政侍従長(1905-1985)の日記の中にもある。

長官室へ行き橋本徹馬氏が面会したいの件を伝へる。永田事件で国会などいろいろあるし、また靖国神社の松永(*松平)宮司が馬鹿なこと、浩宮様の御留学について反対を云ってきたとか。(1983年3月14日)

『入江相政日記』第6巻、朝日新聞社

小結

以上のように、昭和天皇が「A級戦犯合祀」を不快に思い靖国参拝をやめたことは、揺るがない歴史的事実である。そしてこの精神は平成、令和にも受け継がれている。

平成の時代、天皇陛下が神社を親拝なさるとき、そこにA級戦犯が合祀されていないかどうか確認を必ず取った。それが陛下の御意によるものなのか下っ端の私が知る由もないが、かなり慎重に徹底して確認していたので、少なくとも御意を忖度した行動であることに間違いはない。

とりわけ護国神社に陛下や皇族方が参拝されるときは慎重になった。宮内庁は靖国神社や護国神社などイデオロギー色の強い神社をあまり信用していない。電話確認では「A級戦犯を合祀していません。どうぞ安心していらしてください」と言っていたのに、実際には合祀されていたことがあったからだ。知らず知らずのうちに陛下がA級戦犯の祀られた神社を親拝してしまわないように細心の気を使っていた。

そもそも平成になってから皇室と靖国神社・護国神社の関係は希薄になった。上皇陛下はパラオ・ペリリュー島を訪れ戦没者を慰霊したが、靖国神社を親拝することはなかった。これが昭和天皇以来の大御心であるといわざるを得ない。

ゆえに靖国神社の天皇親拝が叶うとすれば、それはA級戦犯合祀取り止め以外に道はないだろう。

竹田恒泰『天皇の国史』における「靖国神社御親拝」の正誤

一言の批判でも“恨む”美智子さまの想い 昭和天皇のお言葉に過剰反応した過去 元侍従長が告白


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