雅子さま流産で傷心でも「晒し者」は、美智子さま「慈悲の試練」だったのか



文/木下聡

国民から大変な祝福を受けられた愛子さまのご誕生

今月14日、安倍首相の辞任表明を受けて行われた自民党総裁選にて、菅義偉官房長官(71)が第23代総裁に選ばれた。菅氏は16日召集の臨時国会で首班指名を受け、第99代首相として新内閣を発足させる見通し。

これまで、男系男子による皇位継承に強いこだわりを持っていた安倍首相の辞任と新内閣の発足により、安定的な皇位継承策に関する議論が前進するのでは、といった期待も高まっている。

現在、国民の間では、女性・女系天皇容認を望む声が大変高まっている。共同通信社が今年4月に発表した世論調査では、女性天皇を認めることに関し「賛成」「どちらかといえば賛成」のいずれかを選んだのは計85%に上り、母方に血筋がある女系天皇も計79%が賛成の意向を示した。

また、『女性自身』が、昨年末から年始にかけてネット上で実施したアンケート調査では、「将来、愛子さまに天皇に即位なさってほしいと思いますか」という質問に対し77.8%の回答者「思う」と答えたという。

現在、国民から非常に高い人気を誇り、「ぜひ次の天皇に」という期待も高まっている愛子さまであるが、このような人気と支持の高まりは、必ずしも最近始まった特別な傾向とはいえない。平成の時代に皇太子ご夫妻のお子様として誕生した時から、愛子さまは大変多くの国民から愛され祝福されていたのだ。

愛子さまご誕生翌日に行われた記帳の様子からも、どれほど愛子さまのご誕生を多くの国民が待ち望み、祝福していたかが理解出来る。

宮内庁はご誕生翌日の二日午後一時から四時まで、宮内庁と東宮御所のほか、京都御所や御陵を管理する各地の事務所などで一般参賀の記帳を受け付けた。三日も午前九時から正午すぎまで、東宮御所を除いて記帳を受け付けた。その結果、十二万二百三十人分の記帳が集まった。一人で複数の記帳をする人もいたとは言え、これだけの参賀者が記帳に集まったことには、宮内庁も意外だったようで、締め切り時間を延長するなどの措置が取られた。時を同じくして、全国の自治体でも記帳が受け付けられた。さらに全国の神社や各国の日本大使館でもお祝いの記帳が寄せられ、合わせて六十五万人にのぼった。宮内庁関係分を合わせると七十七万人分となり、これらの記帳はそれぞれ天皇、皇后両陛下と皇太子殿下の元に届けられた。

『敬宮愛子さまご誕生―宮中見聞記』椎谷 哲夫 著(明成社)

また、愛子さまご誕生の翌年4月2日に行われた出産後初となる会見で、雅子さまは、感極まったご様子で声を震わせ、涙を浮かべながら「初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子どもの姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで、いっぱいになりました」と仰られたが、こうした会見も多くの国民の感動を呼んだ。

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雅子さまの歩まれた「いばらの道」

この会見での雅子さまの涙やお言葉には、万感の想いがこめられていたはずだ。というのも、雅子さまにとって皇室入りされた日からご出産までの8年半という期間は、まさに壮絶ともいえる「いばらの道」であったためだ。

1993年、日本中の祝福を受けて皇太子妃となった雅子さまは、まもなくお世継ぎの重圧に苦しまれるようになった。ご成婚から3年目になる頃には、子作り優先のために公務も減らされた。こうした待遇の変化は、雅子さまを気遣う宮内庁の配慮でもあったが、結果的に雅子さまを精神的に追い詰めることにもなった。

結婚後の会見にて、「今、私の果たすべき役割というのは、殿下からのお申し出をお受けして、殿下からのお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることではないかと考えました」と心境を語られた雅子さま。

外務省を去り、皇室入りを決意された後も「自分を役立てたい」と願われていたにも関わらず公務から遠ざけられ、苦悶されるご様子は、海外メディアから「鳥籠の中のプリンセス」などとも報じられた。

1998年6月、ご成婚5年を迎えると、ついに宮内庁からも懐妊に向けて積極的な介入が始まった。当時、陛下は38歳、雅子さま34歳。自然な形での妊娠を望んでいたおふたりではあったが、不妊治療を受けることに納得され、宮内庁病院で詳しい検査を受けられた。

「この不妊治療が行われていることは、その情報が漏洩しないよう徹底した箝口令が敷かれ、宮内庁内部でも事実を知るのは幹部だけだったようです。

現在では、“不妊治療”は当たり前の医療行為ですが、この時にはまだあまり一般的に認知されておらず。皇統を継ぐお世継ぎの誕生に“人為的な方法”が取られているとの噂が立ってはならないと、宮内庁は徹底的な情報の隠ぺいを図っておりました」(宮内庁関係者)

雅子さまは、皇室の慣習に囚われる守旧派からの批判に耐えられると同時に、当時の日本社会に蔓延っていた様々な偏見とも戦ってこられたようだ。

雅子さまの流産と、美智子さまから与えられた慈悲の試練

こうした努力の成果もあり、雅子さまは36歳の誕生日の翌日、12月10日についに妊娠の兆候が現れた。朝日新聞は一面のトップにて、「雅子さま、懐妊の兆候、近く詳細な検査」と大々的に報道。また、雅子さまご懐妊の報に、日本中が沸き立った。とはいえ、陛下と雅子さまは妊娠が不確かな状態で情報が漏れ、騒ぎになったことに大きなショックを受けられたという。

さらに大きなショックが雅子さまを襲ったのは同月30日のことだった、宮内庁病院で検査を受けられた際に、「稽留流産」との診断が下されたのだ。雅子さまが授かった小さな命は、妊娠初期の段階で育たず亡くなってしまい、子宮内に残っている状態となっていた。

流産の手術処置を受けた雅子さまは、翌日の大晦日にご退院。東宮御所に戻ると、部屋に引きこもられた。病院から東宮御所へ戻られる際には、陛下の配慮により、車のカーテンが閉められたのだが、美智子さまはそうした甘えを許されなかったという。

雅子さまが九九年に流産したとき、撮影されるのは忍びない、と皇太子さまが食堂の白いカーテンを外し、車窓に目隠しをした。それを聞いた両陛下は不快感を示したという。皇族という立場は、辛いときも国民から姿を隠すようなことをしてはいけない、ということだと周りは斟酌した。

「平成皇室の光と影」共同通信(2009年2月27日)

さらに、流産された直後にも、雅子さまには宮内庁やマスコミなどの世論からお世継ぎの期待がかけられ続けた。

「雅子さまが流産を経験された直後にも、“一度は懐妊できたのだから、またすぐできるだろう”“とにかく妊娠できるということがわかったのだから、早くお世継ぎを産んで欲しい”といった期待がかけられました。

実は、このことには美智子さまのご意向も関係していたようで、美智子さまは、宮内庁やマスコミを通して、雅子さまにお世継ぎへの期待をかけ続けることを要望されていたようです。

これも、“辛いときも国民から姿を隠すようなことをしてはいけない”“常に、国民からの期待を背負い続けなければいけない”といった想いゆえに、美智子さまが雅子さまに課された試練と言ってよいでしょう」(前出の宮内庁関係者)

美智子さまにとって、こうしたはたらきかけは雅子さまに対する「慈愛の試練」との想いがあったのかもしれないが、とはいえ、この時、非常に深く傷心されていた雅子にとって、それはあまりにも残酷な仕打ちであったようだ。

平成の時代には、常に国民のことを第一に考えられる姿勢から、「慈愛の皇后陛下」と称賛された美智子さまであるが、国民に向ける優しさを同時に、雅子さまにも向けるべきであったかもしれない。

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