雅子さまの心を折った美智子さまの“激しい叱責” 「当時のことを謝罪したい」の願い



文/高山麻子

皇室にも外出解禁の動き

令和2年も残すところ3ヶ月となった。今年初め頃から国内でも新型コロナウイルスの影響が強まり、4月7日には安倍前総理指揮のもとで、「緊急事態宣言」が発出された。7月末のピーク以降、徐々に落ち着きを取り戻している情勢の中、皇族方も外出を伴うご公務を再開されている。

8月15日、天皇皇后両陛下は揃って終戦75年目の「全国戦没者追悼式」にご臨席あそばされた。お言葉の中でコロナ禍についても言及され「私たち皆が手を共に携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」との力強い励ましも。このお言葉には、多くの国民が勇気づけられたことだろう。

「全国戦没者追悼式」8月15日、日本武道館にて

また、上皇陛下と美智子さまも長い外出自粛期間を経て、ここ数日お身体の検査のために皇居を訪問されている。9月11日、18日とご夫妻揃って皇居を訪問され、それぞれが宮内庁病院でお身体の検査をされているようだ。上皇ご夫妻のお元気そうなお姿に、ネット上のコメントなどでは「久しぶりに笑顔が見れて嬉しい」といった喜びの声が上がった。

皇室の外出解禁も影響してか、このシルバーウィークに全国各地のレジャー施設も家族連れやカップルなどで賑わっているようだ。那須御用邸がある栃木県那須町高久丙の「那須高原りんどう湖ファミリー牧場」では連休初日の19日、7、8月のおよそ2倍となる1000人以上の来園者を記録した。

施設の担当者は「お客さんが戻りつつあり嬉しい。良い連休初日を迎えられました。引き続き感染症対策を徹底していきたいと思います」と笑顔を見せた。

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雅子さまの宮中祭祀

さて、徐々に落ち着き始める皇室だが、懸念も少なくない。

「天皇陛下はご即位後、毎月1日に行われる宮中祭祀の『旬祭』を欠かさず行われ、日々国の平和を祈られています。一方で、雅子さまの宮中祭祀への復帰がなかなか進んでいないのです」(皇室ジャーナリスト)

雅子さまといえば、2004年に適応障害のご療養に入られていからというもの、祭祀から足が遠のいていた経緯がある。2004年から昨年の御即位までに出席された回数は3回だった。

当時から、「海外生活が長いため、霊的な儀式を理解できない」などという声を浴びることもあった雅子さまだが、実際のところはどうなのだろうか? 皇室ジャーナリストの佐藤公子氏はこう話す。

「雅子さまの祭祀に関して、当時からメディアは盛んに批判を浴びせましたが、国民の中には『祭祀はできる時に』『ご体調を整えるほうが大事』という温かい意見を持つ人も少なくありませんでした。

雅子さまが入内当時に、熱心に祭祀やご公務にお取り組みになっていたお姿を見てきたからこそ『何か皇室内で雅子さまの活動を制限するような動きがあったのだ』との見方がなされていたのです。

実際、東宮の職員からは、雅子さまが祭祀に出られない原因として、“千代田の方からの圧力”を口にする人もいました。令和になって徐々に明らかになってきたことですが、当時の東宮に起きていた問題というのは、雅子さま個人の資質が招いたものというよりかは、外的な要因であることが圧倒的だったようです」(佐藤公子氏)

美智子さまのご叱責

では実際、どのようなことが雅子さまの身に起きたのだろうか? 転換期となったのは、2000年の夏のこと。

同年6月16日に、香淳皇后が97歳で崩御された。雅子さまのお悲しみは深く、本葬にあたる7月15日の『斂葬の儀(れんそうのぎ)』までのお通夜期間にあたる『殯宮祗候(ひんきゅうしこう)』には、毎日香淳皇后の棺のお側に付かれようと足を運ばれたという。

「しかし、前日の連絡によって、雅子さまは肝心の本葬をご欠席されることになったのです。実はこの前後に、千代田側、つまり美智子さまからの痛烈なご叱責を受けられたといいます」(同前・佐藤公子氏)

この件について、当時から東宮を取材していた皇室ジャーナリストの友納尚子氏は自著にてこう綴っている。

それは、この前後に千代田側から雅子妃が厳しく叱責されたことだった。それが「簡単なアドバイス」などではなく、雅子妃を深く傷つけるものだったのだ。

『ザ・プリンセス雅子妃物語』友納尚子、文藝春秋、2015

友納氏は「10数年後に曲解されて報じられたように、『皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けた』(週刊新潮/2013年5月2・9日号)とも、『雅子さまが自分だけ咎められたと解釈なさり、ショックを受けた』(同前)というレベルでも収まらないものだった」と語っている。

多くの国民にとって、美智子さまは常に悠然と微笑みを携えて、人々と温かく交流なさる慈愛の国母だ。聖母の如き美智子さまのお姿は、常に国民を魅了し続けてきた。その美智子さまが、雅子さまに痛烈なご叱責を浴びせていた事実に驚きを持つ人も多いだろう。美智子さまの当時の厳しさの背景には、何があったのだろうか?

実は、今では考えられないことだが、美智子さまは不遇な東宮妃時代を過ごされている。昭和天皇の侍従を1934年から1985年まで務め、東宮妃時代の美智子さまを支えた入江相政侍従は、当時なかなか国民的人気が得られなかった東宮について、『相変わらず赤坂方面の人気が冴えず困ったもの』(入江相政日記・第五巻)と悲嘆に暮れる心情を1976年の「年末所感」として綴っている。

一方、華々しい経歴、皇室随一の美貌、それをひけらかすことのない穏やかなお人柄である雅子さまは、東宮妃時代から多くの国民の敬愛を集めていた。皇室内で大きな壁にぶち当たったご経験もある美智子さまにとって、輝かしい王道を歩まれる当時の雅子さまは、激しい嫉妬心の対象であったのかもしれない。ある仙洞仮御所関係者はこう話す。

「美智子さまは最近、過去の事を後悔され、しばしば『雅子さまにお会いしたい、話したい』とおっしゃることもございます。美智子さまの心からの謝罪が、いつか雅子さまのお心に届くことを祈っております」(仙洞仮御所関係者)

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