美智子“女帝”が感動の「猿芝居」 寛仁殿下までも漏らした「苦言」が明らかに



文/佐藤公子

美智子さま、園児らとの心温まる交流

皇室にも徐々に日常が戻ってきた。今月18日、美智子さまは検診のため、宮内庁病院を訪問された。お車に乗られ皇居・乾門に到着された時、偶然にも保育園児らが通りがかり、お互いに手を振られ美智子さまと心温まる交流となった。ネットでも「まるで用意された猿芝居のような見事な光景」と驚きの声が相次いだ。

さる宮内庁関係者は「美智子さまが外出されると、極めて高い確率で子供たちと遭遇されます。しかも子供たちは必ずと言っていいほど、美智子さまの座席側にいます。今回もそうでした。まさかコロナ禍であるにもかかわらず、保育園児らと偶然会うとはまさに奇蹟でしょう。さすがは美智子さま『もっていらっしゃる』としか言いようがありません」と驚きを隠せない。

憧れの美智子さまに御会いできた児童らの感動は計り知れない。これが国民に寄り添う平成皇室の姿なのかもしれない。

ANNNewsCHより

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国民から愛されるスーパーアイドル美智子さま

戦後皇室を駆け抜けたスーパーアイドル・美智子皇后陛下。それまでにない平成皇室の特色の一つは、皇后陛下がともかく表に立ったことだ。昭和天皇の后・香淳皇后がほとんどメディアの前に姿を現さなかったのに対し、美智子さまはご自身の写真集まで宮内庁監修で発刊してしまうほどだ。

平成のあいだ「慈愛の美智子さま像」ばかりが報じられてきた。国民に寄り添うお人柄のみならず、華やかな衣装に、個性的なお帽子と絶えず国民を魅了してきた。だが平成初期はそのような「優しく美しい慈愛の美智子さま」だけが報じられたわけではなく、時として「社長夫人」「女帝」などと表現する記事もあった

たとえば、あるとき両陛下が栃木県の御料牧場を視察される予定だった。その近くに正田家(美智子さま実家)が経営する日清製粉の工場があり、たまたまその工場で労働争議が起きていた。そのため美智子さまのご意向で訪問は取り止めとなった。この時の様子をさる宮内庁職員は次のようにコメントしている。

宮内庁職員「社長夫人のお気持ちがわからないわけではありません。でもそれは、宮内庁の事務方が判断すべきことではないでしょうか。夫人が注文されるから、現場が混乱する。司、司ということを理解しておられない。ご結婚当初にいじめられていた反動なんでしょうが、今の社長夫人はまさに女帝です」

『サンデー毎日』1993年6月27日号

美智子さまに対する侍従たち、寛仁殿下の不満

社長夫人、女帝と揶揄されていた美智子さま。昭和の頃から仕えていた侍従たちの離反は避けられようもない。1993年に『サンデー毎日』『宝島30』は、平成皇室に不満を持っていたK元侍従(実は小林忍氏)が受勲を辞退したというスキャンダルを報じた。当時の関係者の証言によれば、

「私はそこまでしなくても、と思ったんですが、気持ちはよくわかります。いまは二頭政治ですからね。こっちと、あっち」と言いながら、親指と小指を立てた。こっちとは天皇陛下、あっちとは美智子さまを指す。

「いまでは、お言葉にしろ、拝謁にしろ、日程、行き先、何から何まで、両方の陛下のご承諾が必要なんです。こっちがいいと言っても、あっちが首を縦に振らない」

『サンデー毎日』1993年6月27日号

K元侍従(小林忍氏)が受勲を辞退した原因は、どうやら二頭政治に、つまり美智子さまの台頭にあるようだ。皇室ジャーナリストの工藤美代子さんも、自著『美智子皇后の真実』(幻冬舎)のなかで、「この記事の極め付きは、平成に入って皇室行事の主語が「天皇」から「天皇・皇后」に変化したと読める指摘であろう」と平成流の特異性を指摘している。

事実、受勲を辞退した小林忍侍従の日記にも、「天皇皇后両陛下揃って」という平成流が批判されている記述がある。

1992(平成4)年10月20日(火曜)

皇后陛下お誕生日。皇族の祝賀の際(単独)両陛下というのはいかがなものか。皇后陛下お一人がよいのでは(四長官や元皇族(列立)は皇后陛下のみ)と寛仁殿下のお尋ねが樋口氏にあり、それについて我々の意見をききたいとのことで色々話した(中村氏のくる前)。

我々の意見ではお一人がよいと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても手塚〔英臣〕事務主管にお尋ねのあったことを伝え、その意見、説明をお答えとするのがよいと話した。

小林忍『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋、1999

驚くべき一文だ。なんと侍従たちのみならず、“ヒゲの殿下”として知られる寛仁親王までもが、平成流に苦言を呈していたのだ。宮内庁内で猛反発を受ける「平成流」とは一体何なのであろうか?

国民と平成皇室の結びつき

しかし「何事もできるだけお揃いで」というだけで、ここまで侍従たちや皇族方の反発を招くものだろうか? 昭和天皇と香淳皇后も“お揃い”で活動されることは幾度もあったが、このような反動は起きなかった。

この疑問に明快に答えているのが元東宮侍従を務めていた浜尾実(1925-2006)だ。1993年に“美智子さまバッシング”が起こる前から、平成皇室を次のように表現していた。

浜尾実「両陛下は常々、「国民と共にある皇室、国民と苦楽を共にする皇室でありたい」とおっしゃってきました。しかし、最近の皇室を見ていると、お相撲見物や音楽会、観劇などへのお出かけばかりが多く、“楽”ばかりを共にされている」

『週刊文春』1993年4月15日号

さらにその半年後、“美智子さまバッシング”が起こった後には、次のように美智子さまに苦言を呈す。

浜尾実「率直に申し上げて、美智子さまはクレバーだけれども、ワイズではない。そして、あまりにも、ご自分の人気や評判をお気になさりすぎる。そんなことは超越して、もっとおおらかであっていただきたい

『週刊文春』1993年9月16日号

クレバー(小利口)ではあるが、ワイズ(思慮深い)わけではないとは辛らつだ。長く東宮侍従としてつとめた浜尾氏の言葉だけにより重みがある。このように考えるならば、平成皇室は「両陛下そろって」いたように見えて、実は「美智子さまの独断専行」がまかり通っていただけのかもしれない。それが侍従たちや寛仁殿下の反感を買い、内部密告者を生み、美智子さまバッシングに繋がっていったと考えるのが自然ではないだろうか。

側近たちを信頼しなかった美智子さま

ところで、元宮内庁職員の小内誠一さんの目には、当時の平成皇室はどのように映っていたのであろうか? 話を伺った。

美智子さまが率先して動かれ、天皇陛下(現、上皇)が事後承諾するというケースが度々ありました。侍従たちの反発は相当なものがありましたし、美智子さまもそれをご存じだったでしょう。

週刊誌からバッシングを受け、声失症になられた時も、紀宮さま(黒田清子さん)が献身的に付き添われましたが、これは『周りの職員は情報を外に漏らすかもしれない』の裏返しでしょう。また寛仁親王は、非常に保守的な考えを持たれた旧守派の方でしたから、美智子さまの”改革”を苦々しい想いでご覧になっていたこと思います」(小内誠一さん)

また美智子さまの職員らへの猜疑は、それ以前からあったという。

「長らく東宮女官長をされていた牧野純子さんとの不仲は有名です。美智子さまの結婚に反対していた松平信子(東宮参与)さんの御指名で牧野純子さんは東宮女官長に決まったため、美智子さまからすれば“お目付け役”にしか見えなかったようです。

そのことが尾を引いてでしょうか、昭和44年に牧野女官長が退職した後も、美智子さまも明仁皇太子(現、上皇)も、侍従など職員たちとも距離をとってられました。私は若手のヒラだったからあまり気になりませんでしたが、長く務めてきた人たちには辛かったでしょう」(小内誠一さん)

美智子さまの「氷点下対応」といえば、退職する小林忍元侍従に一言も声をかけなかった事案が思い浮かぶ。

1993(平成5)年3月31日(水曜日)

侍従職御用掛退職(注)。10時前に長官から退職の辞令をもらう。
午後2時、宮殿鳳凰の間、両陛下お揃い。陛下から「御苦労でした。皇太后陛下のこと宜しく、からだを大切に」と、皇后陛下からはない。

(侍従職御用掛退職=小林氏は侍従職御用掛を退職し、4月1日から皇太后官職御用掛に就く香淳皇后の側近職員としての異動)

小林忍『昭和天皇 最期の侍従日記』文藝春秋、2019

美智子さまバッシングの情報源が、宮内庁内にあったことは間違いないことが明らかになっている。だがこれらの事態を招いた要因は美智子さまにもあったと言わざるを得ないだろう。かかる意味で、美智子“女帝”が失ったものは、職員たちとの「信頼関係」にあったのかもれない。

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