竹田恒泰『天皇の国史』は「宗教勧誘パンフレット」 進化論ではなく創造神話が史実と信じる仰天



文/小内誠一

宗教と歴史

今回は竹田恒泰『天皇の国史』(PHP研究所、2020)が、進化論を否定して、いわゆる疑似科学を引用している点を取り上げる。

日本人は総じて宗教にドライだと思う。日本の伝統宗教といえば神道と仏教だろうが、ともに独自の創造神話やコスモロジーを持っているにもかかわらず、それが科学的実証的に正しいと主張する人間は皆無だ。たとえば仏教では、我々の住む世界は「須弥山」とよばれる山を中心に広がる平面世界であるとされる。だが、仏教僧たちが「世界は平面なので、地球は丸いと教えるな!」と中学理科教科書にクレームをつけたなどという話は聞いたことがない。

一方、海外のキリスト教徒は、総じて日本人よりも宗教に熱心だ。宗教的には「聖書は正しい」というドグマを崩せないため、進化論を受け入れることが出来ず「創造論(神による創造)を教科書に併記すべき」という声が非常に多い。

幸いにして聖書には「天体の運行」についてはあいまいな記述しか残されていないため、天動説を今になって主張する人は殆どいない。かつてガリレオ(1564-1642)が地動説を主張し、カトリック教会から有罪判決を受けたことは有名な話だ。しかし、そんなガリレオでさえ「我々の聖書の読み方が間違っていたのであり、実は聖書には地動説が書いてある」と主張していたことはあまり知られない。

天地創造と科学

天動説・地動説については、先に述べたように聖書の記述そのものが断片的なものであるから、いろいろな妥協点を見出し、地動説を受け入れることが出来る。だが天地創造については旧約聖書の『創世記』にかなり詳細に書かれており、現代の科学的成果「進化論」と共存することが出来ない。

創造論によれば神が人を創ったことになる。人は最初から人だった。だが進化論によれば人はサルから進化したとされ、人は長い年月かけて今の姿になったことになる。ダーウィンが1859年に『種の起源』を刊行し進化論(自然選択説)を提唱するや、宗教界側から猛反発が起こり、ダーウィンを猿に見立てた風刺画なども出回った。

ダーウィンを揶揄する風刺画

しかし19世紀後半といえば、科学的知識が宗教的価値観を猛烈な勢いで淘汰していた時代でもあり、ダーウィンの存命中に「進化論」は高い評価を受けるに至った。現在の科学のメインストリームでは、神が自然や生物を創造したと真面目に論じる人は少ない

ここで「少ない」と言ったのは、若干ながら科学者が「進化論」を否定して「人知を超えた何者かが生命を設計した」(インテリジェント・デザイン)だとか「神が天地を創造し、目的を持って生物を進化させて人類を誕生させた」(有神論的進化論)だとか主張しているからだ。

だが「インテリジェント・デザイン」も「有神論的進化論」も、科学にすり寄った信仰告白にすぎないのであって、これらが主張される主戦場は「査読付きの学会誌」ではなく「宗教パンフレット」だ。私の家に、ある宗教団体の二人組が来て置いていったパンフレットにもこれが書いてあった。皆さんの多くも同じ体験があるのではないだろうか?

『天皇の国史』にも表れる疑似科学

このように人類の起源をめぐっては、科学と宗教との間で摩擦がある。合理的に考えれば、聖書や記紀には時代的限界があり「進化論」が書かれていないのは当然だ。だが熱心な信仰心は、時として「聖典の記述が間違っている」という事実を認めることを出来なくさせる。

保守論客として高名な竹田恒泰氏の最新著書『天皇の国史』(PHP研究所、2020年8月13日発売)も、このような信仰心にあふれている。神武天皇の実在を信じるのはもちろんのこと、なんと高天原(天空世界)の存在までも信じている。個人の主観的な信条として語るのであれば全く問題ないのだが、本書は「歴史書」という体裁で書かれていること、加えて「全時代の最新学説を検証して、学界の最先端の見地を取り込んだ通史」(Twitter)などと嘯いている点で問題的だ。

すでにいくつかの記事で『天皇の国史』における「古事記・日本書紀は正しい」という教条的性格の問題点を指摘しているが、今回紹介する「人類の起源」についてもその姿勢を崩さない。記紀神話における「人類の起源」は、天孫降臨の神話などからも明らかなように「人は最初から人だった」のであり、聖書の創造論と親和性があり、ダーウィンの進化論と対立する。

竹田氏の『天皇の国史』は、ダーウィン説に極めて攻撃的であり「突然変異によって猿が人に進化し得るか、現在でも論争が続いている」「魚が海から陸に上がったという進化は、わざわざ困難な方向に進化していて、それはあまりに不自然で、自然淘汰では説明が付かないという指摘もある」などなど言いながら、進化論の代案として出されるのが「サムシング・グレート」だというのだから仰天だ。次のようにある。

分子生物学者の村上和雄氏は、人類の存在は進化論では十分に説明はできず。もし最初の人がいたとしても、その遺伝子を書いたのは人ではないことは確実であるとし、その存在を「サムシング・グレート」(何か偉大な存在)と述べている(村上和雄『魂と遺伝子の法則』2011)

人の起源はまだ分からないことも多く、欧米やイスラム諸国では進化論に対する根強い批判があって現在のところ定説はない。『旧約聖書』には、神が最初の人であるアダムとイブを創ったと記されていて、もし人の祖先が(ダーウィン説の通り)猿ならこの記述と矛盾する。(中略)人は最初から人だったという点については『古事記』と『旧約聖書』は一致している。

竹田恒泰『天皇の国史』PHP研究所、2020

なにより『旧約聖書』のアダム創造と、ダーウィン説(猿から進化)と比較して真面目に「矛盾する」と論じられていることに驚愕せざるを得ない。

また竹田氏が肯定的に引用している村上和雄氏の「サムシング・グレート」とは、科学的仮説として唱えられているものではなく、天理教徒である村上氏の信仰告白に過ぎない。村上氏が「これを私はサムシング・グレートと呼ぶようになったのですが、 これこそ、 まさに親神様のことにほかなりません」(『サムシング・グレートの導き』PHP)と述べている通り、人を創造した神のことをサムシング・グレートと呼んでいる。つまり宗教概念なのだ。竹田氏はもしかしたら天理教徒なのかもしれない。

また、このサムシング・グレートは、進化論を排撃するためキリスト教徒たちが「こんな複雑な生物が偶然に生まれるはずもなく、知性ある誰かが設計したに違いない」と言い出したインテリジェント・デザイン(ID説)とよく似ており、ともに疑似科学でしかない。

というのも神(もしくは、高度な知性を持つ誰か)が人を創造したのであれば、わざわざ腰痛おこすように背骨をS字に歪ませて設計したりはしないだろう。人体は精巧緻密なつくりのように見えて、意味もなく不合理な部位はいくらでもある。インテリジェント・デザイン説によれば、これら不合理な個所が残されていることは「神の試練」だというのだが、さすが腰痛が試練といわれてもピンとこない。

ともかく竹田恒泰『天皇の国史』は、歴史書というよりも、宗教書なのだ。もちろん宗教として読む分には、素晴らしい本なのだろう。二人組で来訪する某団体が置いていく「宗教勧誘パンフレット」と同じように。


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